《どこへ……行くの？》
　六月の湿気を含んだそよ風とともに、声が運ばれてきた気がした。困惑したような声、強い不安にか細くなる声。空港から駐車場への道を歩いていたルリは、自分の胸に不意に膨らんだこの思いの源を確かめようと、足を止め、耳を澄ませた。
　隣を歩いていたミナトが、不思議そうにルリの顔を覗き込む。
「どうかしたの？」
　明るい色のスーツの襟を隠す白いスカーフが、彼女の頬をなでている。
　ルリはミナトに答える前に一瞬待った。だが、すでに声の主の気配はふっつりと消え失せてしまっていた。髪を揺らす風も、いつもと変わらない。記念すべきこの日に少し無理をして着てきた袖の短いワンピースと、肩に掛けたショールが肌寒さを感じさせたため、ルリは白昼夢のような状態から醒めた。
――空耳だったんだろう。こんな気持ちになったのは、きっと先程までのにぎやかな語らいの場がお開きになってしまったからに違いない。そう思ってルリは、ミナトの顔を仰いだ。
「いえ、何でも――」
　その時、背後でジュンとセイヤが大声を上げた。
「あのシャトル、何か変じゃありませんか？」
「そうだな……、ブースターの分離ってあんなに派手だったっけ？　それにまだ推進力が足りてないんじゃ……。あっ」
　先を歩いていたメグミが、二人の騒ぎに振り返った。が、息を呑んで立ちすくんだ。
「うそっ」
　ほんの二、三秒の間の後、小さいながらも腹の底に響くような爆発音が周囲に鳴り渡った。その場にいた、ルリを除く全員が空を見上げ、たちまちにして事の真相を知った。
「……」
　誰も何も口に出すことができなくなっていた。視線は空に釘付けになり、呆然と立ち尽くす。
　だがルリだけは、どうしたわけか足を踏ん張ってうつむき、何かに必死に耐えているように微動だにしなかった。
――見てはいけない、と彼女の不安にかられた気持ちが訴えているのだった。
「ルリルリ、ねえ、シャトルが、アキト君と艦長のシャトルが！」
　ミナトがルリの肩を揺する。しかし彼女は身を固くして動こうとしない。いつの間にか、親指を内側に握った拳には力が込められていた。
「ルリルリ！」
　再び爆発音が響き、空港の建物の窓をびりびりと震わせた。ついに彼女は肩をひるがえし、昼前の柔らかな陽の差す薄曇りの空を仰いだ。
　大量の水蒸気が中空に描く白く長い航跡の先端に、あるべきものの姿はなかった。ルリの瞳に映ったのは、折れ曲がって地上へ落下する二基のブースターと、砂の細工のように止めどなく形を崩しながら高みへ霧散してゆく宇宙船だった。
　リョーコがたまらず二、三歩駆け出す。肩まで伸びた髪を乱し、震える声で叫んだ。
「……なんなんだ、なんなんだよ、ありゃ。……どうなってんだ、チクショーッ！」
　一行の周囲にいた利用客の中からも、悲痛な叫びと溜め息が聞こえてくる。警備員達が慌てた様子で空港建屋へ走ってゆく。ゴートはスーツ姿らしからぬ足の速さでダッシュして彼らに追いつくと、事情を聞きながら一緒にドアの向こうへと消えていった。
　ルリは、その場から動けなくなってしまっていた。目を逸らすことも、まばたきすらできず、粉々に砕けてゆくシャトルを見つめていた。
　彼女の中で、育ち始めていたはずの何かが、凍りついた。

　ミスマル邸には、知らせを聞きつけて、見送りに参加できなかったクルー達も徐々に集まってきた。応接間に通された皆は口々に二人の事を話し合っていた。
　二人――テンカワ・アキトとミスマル・ユリカは、苦楽をともにした戦艦ナデシコのクルー達の祝福を受けて挙式、そして今日、新婚旅行へ旅立つ予定だった。しかし二人の乗ったシャトルは離陸直後、原因不明の爆発を遂げたのだった。
　ミナトは部屋の中央にあるソファに腰掛け、隣のルリに背を預けさせていた。彼女の両肩にそっと手を乗せ、いたわるようになでている。暖炉のそばに立ち尽くすメグミは沈んだ表情でうつむき、淡い色彩のスプリング・セーターと、前に組んだ手に視線を落としている。ユキナは自分がその場にいられなかった分、詳しい状況を聞こうとジュンに質問を浴びせていた。さらに、そばにいるプロスペクターがユキナを補足するように質問を追加している。入り口近くでは、しかめ面で腕組みしたリョーコをはさむように立ったヒカルとイズミが、彼女にかける言葉もなくたたずんでいる。ホウメイ・ガールズの五人は部屋の隅に固まり、声を押し殺してすでに泣いていた。見送りのために着込んだ皆の派手な衣装は、場の暗い雰囲気とは明らかに異質に見えていた。
　ルリは、少ない情報から事実を整理しようと必死に考えを巡らせていた。だが、頭の中のどこかにある理論的でない部分が分析作業を拒否しているため、混乱を鎮めることができずにいた。それゆえ彼女の面差しは余計に表情を失い、生来の蒼白な肌は彼女の表に現れているわずかな人間らしさをも奪っていた。
　リョーコが、すすり泣くミカコとジュンコを横目に、口を開いた。
「絶対おかしいよ。あんな事……。なあ、そうだろ、乗ってた奴らは皆脱出ポッドか何かに乗ってて無事なんだろ。あたし達が知らないだけでさ」
　メグミがすぐさま呼応した。
「そうですよ。あの二人がそんな簡単に……。絶対どこかでピンピンして――」
「――皆さんは、見たはずです」
　ルリがメグミの弱々しい声を遮った。
「あれだけの規模の爆発だったんですよ。最初は、恐らくブースターの燃料が漏れて引火、一度目の爆発。次に、破損したメイン・タンクが誘爆して、二度目。客席が炎に包まれるまでには確かに数秒間ありましたけど、その間に脱出ポッドが射出されたようには見えませんでしたよね」
　ルリのあまりに冷静な分析に、その場は一瞬水を打ったように静かになった。
　リョーコが静けさを振り払うかのごとく叫んだ。
「そ、そうだ、ボソン・ジャンプだよ！　アキト達はあれで別の場所へ――」
「ボソン・ジャンプは、チューリップ・クリスタルがなければ実行不可能です。けどシャトルに乗る時、二人はクリスタルを持ってませんでした」
　すげなく否定されたリョーコは、誰にもぶつけられない怒りと悲しみを抱えて再び黙り込んだ。ルリは、リョーコにというよりは全員に語りかけた。
「だから、生存の可能性は……」
　だがそこで、彼女は不意に言葉を切ってしまった。なぜだか最後まで言うことができなかったのだ。
　理解不能な行動をとった自分に、彼女は正直言って驚いていた。しかしこの先を言うと何かを失ってしまいそうな気がしていたのも事実だったのである。
　彼女は黙ってしまったが、彼女の言葉は周りに大きな影響を与えた。
「アキトさん！」
　まず泣き崩れたのはサユリだった。ホウメイ・ガールズの中では気丈で、リーダーの役割をそつなくこなしていた彼女だったが、床にひれ伏すようにして泣く今の表情からそれを伺い知ることはできない。
　他のメンバーも彼女に寄り添って泣きだしてしまった。メグミも、溢れてくる涙を拭おうともしていない。
「ユリカ……」
　ジュンはチャコール・グレイのスーツの袖で目頭をこすっている。
　ルリは、肩に添えられた手に力がこもったのを感じた。見ると、ミナトが切なげな表情で見下ろしている。
「ルリルリ」
「それが今現在わかっている事実なんです。もし泣きたいと思ったなら泣けばいいんです、無理することありません」
　無表情で言うルリに、ミナトは喉がつまったような涙声で聞き返した。
「……じゃあ、あなたは？」
　ルリは意識的にミナトから視線を逸らした。
「私は……、私は、わかりません」
　そこへ、ホウメイとイネスを迎えに行っていたセイヤが現れた。彼は女性達の泣く姿に圧倒されつつも、そばにいたプロスペクターらに言葉をかけた。
「さっき街頭テレビのニュースでやってたんだけど、他の空港でももう一件、シャトルの事故があったんだと。この何時間かの間にだぜ」
　部屋は再び重苦しい空気に包まれた。
「なんでこんな立て続けに……」
　ヒカルがいぶかる声でつぶやいた。プロスペクターが、彼にしては重々しい口調で言葉を継ぐ。
「そう言えばここのところ、飛行機や長距離列車、宇宙船といった公共交通機関での事故が多発してますなぁ。新地球連合の体制にほつれがあるんじゃないかという意見も出てますが」
「世紀末、ってやつかな」
　セイヤが溜め息混じりに言うと、皆は再び黙り込んでしまった。ホウメイ・ガールズの泣き声だけが聞こえる。
　扉が開き、今度はこの家の主、ミスマル・コウイチロウが入ってきた。軍の制服を着用した彼は、足どりこそしっかりしていたが、いつもの覇気は見受けられず、また眉間には深いしわが寄せられていた。
　プロスペクターが静かにコウイチロウに近づく。
「ミスマル提督、このたびはお嬢様におかれましては大変……」
　彼の、一種儀礼的ともいえる挨拶に、コウイチロウは静かに耳を傾けた。
　ひととおりの口上が終わると、コウイチロウは顔を上げ、部屋にいる全員に語りかけた。
「今日は二人のために集まっていただき、礼を言う。……あんな事になってしまって私としてもまだ気持ちの整理がつかない状態であり、至らぬ点があるだろう事をあらかじめお詫び申し上げたい。今、航空局と運輸会社にいる友人に事実関係を問い合わせているところだ。ゴート君も手伝ってくれている。安否の確認や、その……遺体の収容など、詳しい事がわかり次第皆さんにお知らせしたいと思う。連絡先を教えてもらった上で、よければひとまずこの場はお引き取り願いたい」
　コウイチロウは深々と頭を下げた。
　クルー達は、やりきれない様子で帰る支度を始めた。
「サユリちゃん」
　ハルミとエリがサユリを助け起こす。ミナトは立ち上がってユキナを呼んだ後、ルリを促した。
「……さ、ルリルリ、行こ」
　ルリはソファから腰を上げたが、ミナトには従わなかった。
「いえ、私はここに残ります」
「え、どうして？　もともと、アキト君とユリカさんが留守の間は、あたしの家に泊まる予定だったじゃない」
　ミナトはルリの手を引こうとしたが、ルリは応じなかった。
「私はここで二人に関する情報を集めます。それくらいのお役には立てると思いますし。……それに、私の洋服……喪服も、この家に預けてありましたから」
　ミナトには返す言葉が思い浮かばなかった。ルリ達三人が、ミスマル家やその後アキトの部屋でどのような暮らしをしていたのかはわかっていたが、心の奥深い場所で何を感じていたのかまでは、ミナトには知るすべがなかった。ルリは今、ここに残りたいと言っている。それが彼女の希望ならば、かなえてやるしかないのかもしれない、とミナトは思った。
　ルリは、ミナトが反論しないのを確かめてから、コウイチロウのもとへ行き、宿泊の許可を請うた。
「うむ、よろしく頼むよ、ルリ君。あの二人のためにも」
　コウイチロウは弱々しく微笑むと、職務に戻るために部屋を出た。
　三々五々帰ってゆくクルー達と、名残惜しそうに去るミナトを見送った後、ルリは、懐かしささえ感じる、かつて自分の住んでいた部屋を訪ね、手荷物からコンソール・パネルを取り出して、ホスト・マシンに接続する準備を始めた。

　ゴートやルリらの情報収集により明らかになったのは、――最も避けたかった答えだが――乗客の生存に対する絶望視だった。ルリが指摘したのとほぼ同じ経過で爆発と火災は発生し、かなり早い時点で火の手が客室まで及んだため、乗客は脱出態勢に入る前に爆発に巻き込まれたと推測される。シャトルはばらばらに破壊され飛び散ってしまったので、乗客の遺体を発見するどころか、機体の破片やフライト・レコーダーを見つけることさえ困難を極めた。それほどの惨事だったのである。
「次、お膳いきます」
　家具がどけられて広くなった和間を行き来するお手伝いの人々をかき分けて、割烹着を着た――というよりは割烹着に着られたルリが、黒い塗りの客膳を二つ重ね、両手で抱え入ってきた。きれいに拭き上げられた畳の上には厚みのある座布団が整然と並べてあり、膳はそれらの前に一つ一つ丁寧に置かれてゆく。自分の持ち分を設置するとルリは、台所で次の準備をするためすぐさま客間を飛び出した。
　廊下を挟んだ向かい側にある部屋には、リョーコ、ヒカル、イズミの三人が、各々あらぬ方向へ視線をやって座布団に座っていた。うつむき加減のヒカルが、自分の服の袖に黒い糸で控え目に縫われたネルガルのロゴをいじりながらつぶやいた。
「なんかねぇ、またこの服を着るなんて思わなかったなあ。抑留を解かれて心機一転、のはずだったのにね」
　あぐらをかいて座るリョーコも、ヒカルと全く同じタイプのネルガル支給の喪服を着ていた。飾りの少ない、当たり障りのなさそうなシンプルなツーピースだ。
「ナデシコに乗ってた時はまだ覚悟もあったさ。実際、あたし達の周りでたくさんの人間が死んだ。……でも、戦争はもう終わってんだぜ。もう平和になったんじゃねえのかよ！　……なんでだ、どうして……」
　この部屋の奥には祭壇がある。普段あまり見ることのない仏具とともに、これでもかというほど高い密度で詰め込まれた菊の花が生けてあり、中央には黒い縁取りに飾られたアキトとユリカのモノクロ写真がそっと置いてあった。写真の中の二人の笑顔は、とても柔らかだ。
　祭壇を見やっていたヒカルは、足音に気づいて振り返った。
　開いているふすまの向こうを、膳を抱えたルリが、たどたどしい足取りで過ぎる。リョーコ達は、ルリの忙しそうな立ち居振る舞いをぼんやりと見送っていた。ヒカルが静かに言う。
「あの子、これからどうするんだろうね」
　リョーコは、ふと我に返る思いだった。自分はアキト達の事ばかり考えていて、残される者達へ思いは至っていなかった。特に、住む家も家族と呼べる人々も失ってしまうルリが、この先どうやって生活すれば良いのかなどとは、この数日間、想像だにしていなかったのだ。
　もっともリョーコにしてみれば、事故当日にあれだけ冷静な分析ができたルリなら余計な心配は無用だろうと、どこかで思い込んでしまっていたのかもしれない。だが改めて考えてみると、近しい人に突然先立たれてしまうのは、十三歳の少女にとってはあまりに過酷な運命なのではないだろうか。
　リョーコが一人思いをはせていると、イズミがゆっくりと立ち上がった。支給品ではない自前の喪服の裾を整え、廊下へ出る。ルリの後を追うように台所へ曲がってゆく彼女の手には、何かの紙のようなものが携えられていた。
「あいつ、何する気だ？」
「さあ」
　ルリは、流し台の前で調理するホウメイのそばにいて、皿の出し入れや数合わせを行っていた。客用の皿は棚の高い所に収納されている。ルリの背丈では、脚立を使って半ば棚に潜り込むようにしなければ取り出すことができなかった。
　そこへほどなくイズミが入ってくる。目の前にあるルリのつま先を軽くつついて呼ぶ。
「ここは私に任せて」
　ルリは棚から顔を出してイズミを見たが、脚立から降りるしぐさは見せなかった。
「いえ、大丈夫ですから」
　横合いからホウメイが、イズミの言葉に口添えする。
「そうだよ、あんたにゃもっとふさわしい役目があるんじゃないのかい。表へ行ってお客さんの話し相手にでもなってあげたら」
　うつむくルリにイズミが言う。
「私はね、本当は葬式なんて好きじゃない。けど……慣れてるから。後は任せてちょうだい」
「イズミさん……」
　イズミは、悲しげにも見える微笑みをルリに向けた。ルリは、誰かから聞いたイズミの過去を思い出した。
「わかりました、お願いします」
　ルリは脚立を降りてイズミを見上げた。
「でもイズミさん、何で体がぐらぐらしてるんです？　どこか具合でも」
　確かにイズミの体全体が、一定のリズムで揺れている。質問された彼女は微笑みを崩さず、また体の動きも止めずに、自分の足下を指さしてみせた。
「下？」
　ルリが彼女の立っている場所を見ると、いつの間にかそこには半紙ほどの大きさの紙が敷かれていた。紙にはひらがなで『ば』と『ず』の文字が書かれている。イズミはその二つの文字を両足で交互に踏んでいたのだ。
「『ば』と『ず』？」
　ルリが口に出して言うと、イズミはまだ微笑みを崩さずに、人差し指を顔の前で振り、彼女の言葉を訂正した。
「『ば』か『ず』を踏んでいる……『ばかず』……場数を踏んでいる」
　イズミはムフフ、と笑いだした。ルリは一瞬、どう対応したものかとおもんばかった。
「じゃ、後よろしく」
　彼女はきびすを返し、自分のギャグに大受けのイズミと呆れ笑いのホウメイを残して台所を去った。
　ルリは控え室で割烹着を脱いだ。丈の長い黒いワンピースのスカートに付いた埃を叩くと、数珠を持って家の前に張られたテントへ向かった。テントの中では、何とか落ち着きを取り戻したホウメイ・ガールズとジュンが、受け付け業務を行っていた。しかもちょうど、弔問客としてイネスが香典を渡しているところだった。彼女の後ろにはゴートも立っている。
「イネスさん」
　気づいたイネスはルリに近づいた。ルリはほとんど彼女の白衣姿しか見たことがなかったのもあって、今日の黒い衣装に多少の違和感を覚えないではなかった。しかしよく見ると、あまり派手ではないが高そうな素材でしつらえられた彼女の服の襟には、ネルガルのロゴがしっかりとあしらわれている。ルリはそのロゴによって、逆に安堵を感じた。
「ちょうど良かったわ。ルリさん、悪いけど艦長とアキト君のところに案内してくれる？」
「いいですよ」
「……私も行こう」
　ゴートは他の弔問客に何気なく目配せをしながら、ルリ達についてきた。
　ルリに連れられてミスマル邸を歩いている間、イネスはルリに語るともなく語っていた。
「本当は最初からお手伝いしたかったんだけどね、今の仕事のおかげでどうしても手が放せなくて。まったくヤボな話よね」
「それで空港へも見送りに来られなかったんですか」
「そういう事になるわね。まぁでも、披露宴には出られたから」
　ルリはイネスの淡々とした口調がなぜか気になった。ちらりと後ろを向いてイネスをうかがったが、いつもと変わらない引き締まった表情で、まっすぐ前を見て歩いている。
「ところでルリさん、あなた提督の家で事故の原因や事後経過なんかを調べてたんですってね」
「はい、ネット経由で。プロスさんの口利きでネルガルの回線を使わせてもらいました。見つけた情報は報告書の形にまとめてプロスさんに渡しておきましたから」
「ええ、私もコピーをもらってるわ。あれだけの項目を集めるの、大変だったでしょう」
　ルリはふと、ここ数日の自分を思い出した。一人きりで連夜電子の世界をさまよっていた自分を。
　アキトとユリカの手がかりを求めて、ありとあらゆる情報をたぐり寄せていた。時には未公表の事実を手に入れようと、官庁や警察、軍の内部データベースにまで侵入したこともあった。しかし新たな事実が判明するたびに一歩一歩確実になってゆくのは、遠ざかる二人の姿にたどり着けない自分だった。どれだけ手を差し延べても、彼らに触れることすらできない。気づいた時には、ネット上に存在するほとんど総ての情報を探し尽くしていた。
「詳しく調べてあったわね。……めぼしい情報はあれで全部？」
「はい、リストアップするときに重み付けはしましたけど、手に入れたものは全部盛り込んでおきました」
「そう……。本当にあれ以外にはなかった？」
「……ええ」
　ルリは、再びイネスを見やった。イネスがなぜそれほどまでしつこく尋ねるのか、ルリには不思議だった。だが、彼女の疑問が解決されぬ内に、二人は祭壇の前に立っていた。
「……」
　イネスは無言で立ち尽くしていた。彼女の背後に控えているルリの目からは、彼女の現在の心境を察することはできなかった。
　ゴートは戸口へ身を引いた。イネスを邪魔しないようにルリに話す。
「私は外で待っている」
　ルリはうなずいた。
　イネスはしばらくじっとしていたが、やがて厳かな手つきで線香を取り上げて火をつけ、二人の遺影の前に捧げた。丁寧で長い合掌の後、彼女はルリを振り返った。
「私、これで失礼するわ。また研究所へ戻らなきゃならないの。ルリさん、二人の事、私の分までねんごろに送ってあげて」
「ずいぶんあっさりしてるんですね」
　ルリの言葉に、イネスは唇の端をゆがませるように微笑んだ。感情のこもらない平淡な口調で言う。
「そう見える？　……でも、事実はこうよね。ここにあの二人の遺体はない。あるのは写真と空の棺だけ。あなたが唯物論者かどうかは知らないけど、こんなのでお葬式って言えるのかしらね」
　イネスはルリに向き直った。
「ホシノ・ルリ、あなたも本当はこう思ってるんじゃない？　もう以前の暮らしに戻ることは二度とできない。なのに、彼らの死をしっかりと認識して自分の気持ちに決着をつけることもできない。このまま私はどうやって生きていったらいいの、なんて」
　ルリは答えなかった。ルリとイネスの間に少しだけ沈黙が流れたが、イネスが一つ溜め息をついて、側に置いておいた自分のバッグを拾い上げた。
「飛行機の時間だわ」
　ほぼ同時に、ふすまを開けてゴートが入ってきた。
「ドクター、そろそろ」
　イネスはぞんざいに答える。
「はいはい、わかってます」
　部屋を出るイネスについて、ルリも歩きだした。
　ゴートを先頭に、三人は早足で廊下を歩んだ。ルリはむしろ小走りに大人達を追っている。
　玄関まで無言で歩いてきたイネスだったが、扉を開いて去り際、ルリに声をかけた。
「それじゃ、またね」
　手を挙げて応えるルリに、イネスは微笑んで続けた。
「生きていたらまた会いましょう」

「提督、ありがとうございました」
　プロスペクターのよどみない司会でもって、葬儀はしめやかに執り行われていた。
　震える声で、会葬者へのお礼の言葉を述べたコウイチロウは、自分の席に戻ってくると、隣に座るルリに耳打ちした。
「ルリ君、出棺の時には、君が二人の写真を持ってくれんかね」
「え、でも……」
「いいんだよ。彼らに一番近かったのは、ルリ君、君だ。彼らも喜ぶはずだ」
　そう言って、コウイチロウはうなずいた。
「……はい」
　コウイチロウの言葉は率直なところ、ルリには光栄だった。だが反面、今の中途半端な気持ちのままで、二人を送り出す人々の中心に立つことが本当に良いのかわからずにいた。

　黒い服の人々、読経、花、涙、お香。様々なものに押し包まれる中、二つの空の骨壺は、ミスマル家の墓地に納められる。火星で両親を失い、地球には連絡を取れる親類もないアキトは、一度テンカワ姓を受けたユリカとともにここに眠ることになった。
　ルリは二人の遺影を胸に捧げ持ち、薄い色の煙をまとった墓石を長いこと見つめていた。葬儀はすでに終わり、参列者も僧侶も引き上げている。残っているのは、ナデシコ・クルーを中心とした、数えるばかりの人々だった。
　ルリの斜め前でたたずんでいたメグミ、エリ、ミカコに、セイヤが近づきながら声をかける。
「メグミちゃん」
　メグミは振り返ったが、言葉を発することはできずにいた。きつく握ったハンカチを頬に当て、涙をにじませた瞳でセイヤを見るだけだった。
「……ま、わかってるとは思うけどよ、あんまり気を落とすなよ。どれだけ思い詰めたところで、二人が浮かばれるわけじゃないんだし」
　メグミは一度大きくしゃくり上げてから、ゆっくりと答えた。
「ええ、そうなんですよね。私、お葬式が終わったらもう泣かない、って決めてたのに、でも……」
　ミカコが心配そうに彼女の顔を見上げている。言葉を切ると、メグミは深く息を吸った。
「ナデシコに乗ってた頃の、あの二人との事、いろいろ思い出しちゃって。いろいろあったから、だから、アキトさんとユリカさんにはこれからもっと幸せになってほしかった、理想のカップルにしたくなるくらいに……。けど、新婚旅行でこんな事になるなんて」
　メグミはまた口を閉ざした。必死に涙をこらえているようだった。セイヤはなぜか二枚目ぶってメグミに語った。
「ため込まない方がいいぜ。悲しい時には泣く、それが人間ってもんよ。あー、何だったら俺の胸を貸してやってもいいんだけど？」
「いえ、それは遠慮しときます」
　即答するメグミに、胸を張っていたセイヤは多少大げさにうなだれた。
「あっそう」
　だがすぐ立ち直って腕組みをすると、空のどこか遠いところに視線を投げた。
「まあ、本当の事言えばだ、俺もつらい気持ちに変わりねえ。もうアキトのヤローの屋台で、皆と一緒にラーメンが食えないんだと思うとな」
「そうですね……」
　そこでエリが口を開く。
「アキトさんのレシピが残ってたら、私達であの味を真似してみることもできるんですけど」
　セイヤは顎に手をやり、意外そうな声を上げた。
「あいつのレシピ？　そんなもんがあるんだ」
　ミカコが答えを引き継ぐ。
「この前ホウメイさんのお店で、厨房組だけで前祝いした時、アキトさんが言ってたんです。でも、旅行先に持ってって味付けの勉強するんだって言ってたから、もうここには……」
「そう言う事か。じゃあ、もしかしたらよぉ、あいつの事だから、あの世でラーメン修業か何かしてるんじゃねえかな」
　セイヤはふっと笑った。ミカコはセイヤの言葉に少し付け加えた。
「っていうか、逆にユリカさんがアキトさんに手料理を作ってあげてたりして」
　その場にいた全員はやすやすと想像することができた。大きな皿に、奇妙な色合いと異臭を放つ料理を乗せたユリカが、逃げ惑うアキトを追いかける姿を。あまりにありそうなシチュエーションだったため、メグミの頬には思わず笑みがこぼれた。他の人々も似た思いで微笑んでいた。
「……そうね、きっとそうよね」
　まだ涙の粒がまつ毛にこびりついていたが、メグミは自分の中から湧き出た微笑みを大切にしようと、少しうつむき、気持ちを整えた。
「私、この戦争で起こった事、何があったかを、たくさんの人に知ってほしい。そしてこれからどうしていけばいいか、皆で考えることができたらいいな、って思います。私の大好きな、声のお仕事を通じて」
　メグミの言葉に応えて、ミカコ達は未来への希望などについて語り始めた。
　しかしルリの耳には、彼らの声はほとんど聞こえていなかった。深く目を伏せて、アキトとユリカの写真を持つ自分の手のひらを見つめていた。血の気が一向に戻らない指先は、我ながら冷え切っていて、別の物体のようだった。
「ルゥーリっ！」
　突如誰かがルリの前に立ちはだかった。ふてくされ顔で手を後ろに組んだユキナである。
「早く行こうよ。ミナトさん、待ってるんだからね！」
　ユキナの指さす方向をルリが振り返ると、墓地の端にある下り階段のそばに立ったミナトが、申し訳なさそうな笑顔で小さく手を振っている。
「ほら！」
　ユキナはルリの背中を叩いて先に駆け出した。ルリは反動で二、三歩前へ進む。だがすぐに立ち止まって、また自分の指先に視線を落とす。
「……ばか」
　ルリはうつむいたまま、ミナト達のもとへとぼとぼと歩いていった。