空は一様に厚い雲に覆われていて、いつ雨が降ってもおかしくない天気だった。ほとんど風をはらまない大気は重く、小高い丘の上に開かれた公園に備えられた様々な物――遊具や芝生、木立、展望台など――に等しくのしかかっている。
　全く人影のない二階建ての展望台の屋上で、コイン式双眼鏡の近くに作りつけられたベンチに座り、ルリは眼下の景色を眺めていた。白地に濃紺の横縞が入った丸首のシャツと、薄いオレンジに染められたジャンパースカートを身につけ、白いソックスとグレイのスニーカーを履いた足は力なく前方へ伸ばされている。
　繁茂した木々に覆われた山肌が切れるふもとには小さな家がたくさん建っており、国道を越えた先に茫漠と広がる海と対照をなしている。砂浜や突堤の近くに立つ白い波頭が、ゆっくりと動いているのがつまびらかになっていた。
　ルリは身じろぎ一つしない。まばたきさえ忘れてしまったかのようだ。過ぎゆく時を気にかけることもなく、命のない作り物のようにただ座って遠くを見ている。
　彼女がようやく腰を上げたのは、雲の上の太陽が傾き、光が弱まり始めた頃だった。飾り気のない階段を下りて、石畳になっている公園の敷地を歩く。平日であるためか他に利用者は見受けられない。展望台一階にある売店の店番をする女性達が横目でルリを見ているだけだった。
　ルリは木立に囲まれた階段をゆっくりと下りて、ちょうど駐車場に止まっていたバスに乗り込んだ。ほどなく、ルリだけを乗客に、バスは動き出した。
「雨」
　坂道を下るバスの窓に、雨粒が細い線を作り始めた。窓に顔を寄せると、霧にかすむ街に近づきつつあるのが見えた。
　駅前は放課後からアフター・ファイブの時間帯に当たり、活気を呈していた。ウィンドウ・ショッピングをする女性、早足で駅へ向かう会社員、大声で内緒話をしてはしゃぐ女子学生、山ほどの荷物を持って駅ビルから出てくる親子連れ。様々な人々の生活のリズムが入り乱れるこの場所で、ルリは水色の小さな傘一つ広げ、遅い足取りで歩いていた。
　彼女の周囲をとめどなく行き過ぎる人には無数の表情がある。一人一人の内にはまた無数の思いが存在しているのだろう。思いをかなえるために歩き続ける彼らに押され押されて、今ルリの歩みはおぼつかなくなっていた。
　やがて彼女は、歩道の真ん中についに立ち止まってしまった。
　傘をどけ、ぱらぱらと降り注ぐ雨を頬に受けながら、ごくゆっくりと振り返る。
「……どうしてこんな所に？」
　ルリの後ろに立っていたのは、一抱えもある大きな花束を胸元に携えて微笑むエリナだった。浅黄のレインコートと傘が鮮やかに映えている。
「見つけたわよ、ホシノ・ルリ」
　エリナはそう言うと、相手の反応を待たずに花束をルリに押しつけた。あじさいを中心に淡い色でまとめられた清楚な印象の花束だったが、ともかく量が多く、ルリは両手からこぼれそうになるのを何とか防いだ。
「ミナトの家に行ったら留守なんですもの、どこに消えたかと思ったわ。……誕生日おめでとう、二日遅れだけどね。ああ、それはネルガルの経費で落としてるから、お礼は無用」
　一方的にしゃべり終えると、エリナは左手首の通信機を起動した。
「会長、彼女を発見しました」
　エリナとルリの間の空中にすぐさまウィンドウが開き、アカツキの顔が映し出された。いつもの彼らしい、隙のありそうななさそうな笑いを浮かべている。
「あーご苦労さんご苦労さん、エリナ君。手がかりゼロだったのにこんなに早く見つけるなんて、さすが会長秘書だねえ」
「ねぎらいの言葉もいいですけど、時には形で表してもらいたいものね、アカツキ君」
　言い返された彼は、二人によく見えるように肩をすくめ、次いでルリへ視線を移した。
「やあルリ君。どうやら元気みたいだね。告別式の時よりも顔色がいいんじゃないかな」
　ルリは花束の陰から目だけのぞかせて返事をする。
「どうも。それより、何か用事があるんじゃないんですか。あ、ところで花束、ありがとうございます」
　アカツキは自分の目の前でひらひらと手を振った。
「あー、気にしない気にしない。用事に関しては……詳しい事はエリナ君から聞いてくれたまえ」
　ルリが見上げると、エリナはにっこりと微笑んだ。アカツキは話を続けている。
「本当は僕が直接会って話したいところなんだが。まぁ何だ、弱体化してるとはいえ、うちの会社もいろいろやる事があってねぇ」
　アカツキはウィンドウ越しに片目を閉じてみせた。
「だけど、アキト君とユリカ君の三十五日か四十九日には顔を出すつもりでいるんで、時間と場所が決まったら、案内を送ってくれるかな。よろしく頼むよ。じゃ」
　彼はさっさと通信を切ってしまった。ウィンドウが消えると、らんらんとした瞳で見つめるエリナの顔がルリのすぐそばに寄せられていた。
「『詳しい事』は、どこかでお茶でもしながらにしない？」
「私、夕飯までには帰りますよ」
　答えるルリの背中に手を添えて、エリナは彼女を最寄りのデパートへと導いた。
　二人が入ったビルの二階にある喫茶店には、暗い色の大きなガラスが通りに面してはめてあり、外の雑踏やロータリーを循環する自動車がよく見えた。
　オフホワイトを基調にした堅い印象の上着と黒のタイトスカートというスーツを身にまとったエリナは、椅子に深く腰掛け、高く足を組み、自分の注文したモカ・マタリを前に、しばし無言だった。向かいに座ったルリは、黙々とチキン・ライスを食べている。
「……ま、食が細くなってるわけじゃないのね。とりあえず何よりだわ」
　そう言うと、エリナは小さなカップを口に運んで話題を繰り出した。
「あなたの作った事故調査報告書、私も読ませてもらったわよ。そこらのハンパな調査機関なんかより、よっぽどちゃんとしてる」
　香ばしいライスを口いっぱいにほおばっていたルリは、言葉の代わりに頭を下げることでエリナに答えた。
「その能力、もっと活用してみる気はないの？」
　エリナはカップを置いて続ける。さとすような説明口調だ。
「木星との休戦が実現しちゃった今、時代は情報戦だと思うのよね。地球だ木星だ、って相手の存在がはっきりわかってた内はまだ良かったけど、これから注意しなきゃならないのは、自分達の間に紛れ込んで見えなくなってる敵」
　彼女は、組んでいた足をほどいた。
「そんなやっかいな奴らを見つけ出すには、強力な情報収集能力が必要になるわけ。そして、いかに相手の弱点を握り、完膚無きまでに叩きのめすか。ここがポイントね」
　エリナは、ルリが自分の話に耳を傾けているのを確かめ、身を乗り出した。
「あなただったら、そんな時代の立て役者になれる。あなたがそれだけのポテンシャルを秘めてることに、私達は注目してるわ。ネルガルは、そう、ネルガルだけは、全力であなたをバックアップすることを約束できる。どお、この話、乗ってみない？」
　ルリは口の中に残っていたライスを飲み込み、答えた。
「そういうの、間に合ってます。どうしてもって言うんだったら、他を当たってもらえませんか？」
　この程度の答えは予想していたのか、エリナは勝ち気な微笑みで少し身を引き、カップを再び口に運んだ。ゆったりとした物腰で一口飲むと、口紅の跡を押さえながらカップをテーブルに置いた。
「あなた、プロスペクターの紹介で、ソシアル・エンジニアリングのアルバイトしてるんですってね？　……ターゲットの企業にハッキングして情報を盗み出す寸前まで侵入、セキュリティ上の欠陥を指摘してシステム保護の指導をする……、あなたにとっては造作もない技よね。バイト代でハルカ家の家計を助けようだなんて微笑ましいお話。だけど、あなた自身はそれで満足してるの？　もっと自分にふさわしい仕事があるんじゃないかとは思わない？」
　ルリは残り少ないチキン・ライスを平らげるべく皿に顔を近づけながら答えた。
「それっていわゆる余計なおせっかい、大きなお世話ってやつじゃありませんか？」
　エリナは右手をテーブルについて、畳み込むように言葉を返した。
「おせっかいけっこう、大きなお世話がどうだって言うのよ。ナデシコにいる時からずっとそうだったけど、あなた達クルーってどうしてそうトロいのかしらね。見てると本当イライラしてくるわ。自分がどういう人間で人から何を求められているのか、まじめに考えたことあるの？」
　エリナの挑発に、しかしルリはのらなかった。柳に風のルリを見て、エリナはつい強い言い方をしてしまう。
「わかってるわよ、あなたがなぜそんな生活を改めようとしないか。テンカワ・アキトとミスマル・ユリカなんでしょ？　あの二人の事が忘れられなくて、他の事を考えられないんでしょ？」
　突然二人の名前を出されたルリは、食事を摂ることで暖まっていた自分の胸が、急激に冷え込むのを感じた。
「改めなきゃならない生活なんて、してませんけど」
　エリナはディベートの様式としてよりは、自分の熱い気持ちにまかせてやおら立ち上がった。挑むようにルリを指さす。
「ホシノ・ルリ、あなた自分を何者だと思ってるわけ？　これから何をしたいの、どこへ行こうとしてるの？」
「……エリナさん、声」
　指摘されたエリナは、自分の大声が周囲の注目を浴びていることにやっと気づいた。無意味な愛想笑いですごすごと席に着くと、一つ咳払いをする。
「まったく、あなたと話してると、つい子供相手だって事を忘れちゃうわ」
　彼女の一言に、ルリも自分の立場を思い出した。
「私、少女です、子供じゃありません」
　エリナはルリをにらみつけ、控え目な声量でルリを脅しにかかった。
「子供じゃないんだったら、自分の身の振り方くらい決められるわよね？　自分がナデシコを実質的に動かしてたっていう自覚を少しはもってもらいたいもんだわ」
　ルリは、すでに空になっている皿に、今までずっと握っていたスプーンを丁寧に置いた。エリナの意見に対する自分なりの回答を、なるべくわかりやすい形で表現しようと思った彼女は、できるだけ静かな言い方で言葉を返した。
「それ、本気で言ってるんじゃないですよね。あそこでは、二百人以上のクルーが働いていたじゃないですか。その人達一人一人がいたからこそナデシコはナデシコでいられたはずです。エリナさんだって船の舵取りをしてたの、忘れてしまったわけじゃないですよね」
　エリナはなぜか、ルリの言葉の妙な迫力に気おされてしまい、うまく反論できなかった。
「忘れるわけないじゃない。忘れられないから……」
　彼女の脳裏をある人物の姿がよぎった。すぐに幾つもの思い出が彼女の頭の中に溢れそうになったが、気力を振り絞ってそれを抑えた。
　集中力を注ぎ込んでしまった彼女は、ルリに向かって強い姿勢を保つことが難しくなり、静かに息をつくと椅子の背もたれにそっと背中を預けた。
「……まあ、いいでしょ。あなたが乗り気にならないのは、私達の提案にまだ魅力が足りないからだと理解しておくわ」
　急におとなしくなったエリナが気にならないでもなかったが、ルリは帰りの時間が近づいているのに気づいた。
「お話はそれだけですか」
「え？　ええ、そうよ。でも今回の事、私達は優先的に取り組んでいるから、覚悟しといてね。あなたもよく考えといてちょうだい」
「とりあえず、お気持ちだけは聞きましたんで」
　椅子から立ち上がるルリに先んじて、エリナはテーブルの上の注文票をつかんだ。
「今度は家に寄らせてもらうから。昼間ならミナトにグダグダ言われることもないしね」
　エリナと、花束を抱えたルリはそろって店を出、ビルの前で別方向へ歩き出した。ルリは駅へ行き、下り電車をとらえた。
　車内に人は多かったが、ひどい混み方ではなかった。レールの音を聞きながら、ルリはエリナの言葉を少し思い出し、自分の暮らし向きを考えた。
　確かにミナトやユキナとは生活のパターンが全く異なっている。学校に通っているわけではないし、夜はずっとアルバイトだ。これまでの自分の人生の中ではそれほどでもないつもりでいたが、実際にはこれは珍しい生活なのかもしれない。だがだからといって、人からとやかく言われる筋合いではないのではないか。
　改札から外へ出た時、雨は弱まっていたがまだ降っていた。ルリは傘の中に身を縮めるようにして、駅前を通る細い道を歩いていった。
「ルリルリ」
　呼び止める声に振り向くと、肩からバッグをさげ、スーパーの大きなビニール袋を手に持ってさらに傘をさしたミナトが、遠くから急ぎ足でやって来るところだった。千鳥模様の入ったベージュのスーツの上に薄手の透明なレインコートをはおり、足には白いパンプスを履いている。
「ふぅ……追いついた。一緒に帰ろ」
　ルリの横に並んだミナトは、彼女の持つ大きな花束に気づいた。目を丸くして尋ねる。
「あれえ、どしたの、そのお花？」
　ルリは自分の持っているものを彼女に見せようと少し高めに持ち直した。
「これですか？　さっきエリナさんにもらいました。ミナトさん、荷物、持ちますよ」
「あぁ、ありがと。じゃ、バッグをお願いしちゃおうかな」
　ミナトが腰をかがめると、ルリはショルダー・バッグをはずしてやった。教師用の資料が詰まっているだろうそのバッグを、ルリは自分の肩にかけた。
　話題を戻そうと、ミナトはルリに問いただす。
「あの人に会ったの？　また自分勝手な事をポンポン言ったりしてなかった？」
「大丈夫ですよ。誕生日憶えててくれたみたいで花束もらっちゃいましたし、お茶もごちそうになりました」
　ミナトはルリのわずかな反応から、大した事は起きなかったのかもしれないと判断した。
「そお？　……あの人も時々嫌ぁな感じになるのが困りものなんだけどね。あ、そうそう」
　袋とは別に持っていた紙箱を掲げる。
「えへへ、こ・れ。駅裏の和菓子屋さんで買ってきたんだぁ。みつ豆にくずきり、栗ようかんと、それから鯛焼きもあるんだよお。ほら、おとといはケーキだったから、今日は和風でね」
　ルリは品数の多さに一瞬身を引いた。
「ミナトさん、そんなに甘いもの好きでしたっけ？」
「いいのいいの、甘いものは別腹だって」
「ちょっと意味違うと思いますけど」
　突っ込まれたミナトは明るく笑い返した。
「ん、そうだったっけ？　でもぉ、ユキナちゃんにも滋養をつけてもらって部活頑張ってほしいし。ルリルリも、ね」
　彼女は軽く首を傾げてみせる。だがルリの返事は素っ気ない。
「私は体育会系じゃないですから」
「まあそう言わずに。……今日も、海に行ってきたの？」
　微笑んでいたミナトだったが、途中から少し声の調子を落としてルリに尋ねた。
　ルリは改めてミナトの目を見た。彼女は思いつめたようなまなざしでルリを見つめている。
「いえ、今日は丘の上の公園へ」
「そう」
　ミナトが一言だけ告げた後、一瞬の間があった。が、再び口を開いた彼女は、すでに先程までの明るさを取り戻していた。
「あ、でね、その和菓子屋さんに行った帰りにさぁ、面白いもの見つけちゃったのよ……」
　ミナトのよもやま話と、それに対するルリの評価や突っ込みは、二人が家に帰り着くまで続いた。

　翌日、朝のハルカ家はかしましい喧騒に包まれていた。その主な根源はユキナである。
「ひゃーっ」
　とりあえず制服のシャツとスカートだけは着てみたといった風体の彼女が、鞄とリボンを手に髪をときながら階段をばたつかせて降りてくる。
「遅刻しちゃうよぉっ」
　アスリートの走りで廊下を駆け抜けるユキナは、着くずれたパジャマ姿でのろのろ歩くルリを瞬時に追い越し、食堂へなだれ込んだ。
「おはよう！」
　少々継ぎ目が気になる板の間の食堂に付属する台所では、エプロンを着けたミナトが調理をしている。
「おはようさん」
　彼女が味噌汁の入った木の椀を差し出すと、ユキナは早速かぶりつくように食事を始めた。しかも同時に茶の間のテレビをリモコンでつけていた。星占いを横目で見る。
　やがて、目をこすりながらルリが入ってきた。
「ミナトさん、ユキナさん、おはようございます」
　ミナトが微笑みかける。
「おはよう」
「はうっ」
　ユキナは飯を口いっぱいにかき込んでいたせいで、認識不可能な挨拶の言葉を発するはめになった。
　ルリは目配せで二人に応えてから、ユキナの向かいに座った。彼女が、魚の柄のシールの貼ってあるプラスチック製の椀に炊飯器から飯を盛りつける間に、ミナトは彼女の前に味噌汁の椀を置く。
「ありがとうございます」
「バイト、お疲れ様」
　自分の分を用意すると、エプロンをはずしてミナトも席についた。今朝のおかずのメインは甘鮭の焼き物と炒り卵だ。
「ユキナ、あたし今日は朝の小テストで早めに出るんだ。一緒に行こうよ」
　問いかけるミナトに、ユキナはかぶりを振る。
「えーっ、だめだめ、今日はもうご飯食べたらぎりぎりなんだから」
「なぁーんだ、つまんないの。もう、朝練なんかやめちゃえっ」
　不満げなミナトに対して、ルリは目を上げずに言った。
「ミナトさん、一緒に走っていったらどうです」
　ルリの意見に、ミナトは苦い顔で笑った。調味料に手を伸ばす。
「それ、パス。かけっこはちょっとねー、それにあたし、アンニュイが売りらしいし」
「ニュイ？」
　ルリの問いかけにうなずいたミナトは最初、わざとらしいすまし顔を作ったが、こみ上げてくる笑いを隠せなかった。
「そ。学校でね、そんな風に言われてるみたいなんだな。何か笑っちゃうよね」
　ルリは学校でミナトが教鞭を執る姿がどうにも想像できなかった。ふと一人ではしを止め悩んでいると、ミナトが声をかける。
「洗濯物、ゆうべの内に洗っといたんだけど、いいかしら」
「わかりました。今日は雨降らないみたいですから、外に干しておきますね」
「サンキュ、助かる。……で、今日も出かけるの？」
　ルリは、質問するミナトの声が昨日のような暗さを持っていなかったことに少し安心した。
「はい、また海に」
「車には気をつけるんだよ」
　ミナトの言葉には年齢にふさわしくない優しさがこもっているようにルリには感じられた。
「ミナトさんこそ」
　二人が見つめ合ったところで、ユキナが大声を上げた。なぜか緊張した声色だった。
「ねえ、ミナトさん。イネス・フレサンジュって、あの、説明大好きオバサンだよね？」
「え？」
　突然の事に不意をつかれたミナトが振り返ると、ユキナはテレビをじっと見つめていた。何事かと席を立って茶の間をのぞきに行ったミナトが見出したのは、ニュース番組に取り上げられた何かの名簿だった。五、六人の人物の名前が挙がっており、一番上にあったのが、イネス・フレサンジュという文字だった。
「何なの、これ」
　ミナトの問いに、ユキナははっきりした答えが出せない。
「あのね、よくわかんないけど、飛行機が行方不明なんだって。それが乗客名簿だって」
　ルリもユキナとともに茶の間へ移った。ミナトは畳に正座して食い入るように画面を見ている。
「そんな……何かの間違いでしょ」
　ミナトが戸惑う中、アナウンサーは、淡々と情報を伝えている。場所はヒマラヤ上空、現地時間の昨日夜に、ネルガルのチャーター機が消息を絶った。飛行前に搭載した燃料の量から考えても、不時着あるいは墜落した可能性が高い。乗員、乗客六名の安否が気遣われる、などなど。やがてテレビの映像は一転し、乗客の顔写真が映し出された。それはまぎれもなく、あのイネスだった。
「え……」
　三人は声もなく画面を見守っていた。番組は、イネスがネルガル重工に所属する研究者で、学会での講演を終え移動する途中で今回の事故に遭遇したと伝えていた。アナウンサーはその後全く同じ情報をもう一度繰り返してから、別のニュースへと話題を切り換えた。
「……」
　ミナトは大きな吐息とともに肩を落とし、左の手の甲を額に当てた。
「……信じらんない。今度はイネスさんが？」
　ユキナはミナトのそばに座り、心配そうに彼女の顔をのぞき込む。
　ルリはしばらくの間、呆然と二人を見ていた。だが何事か思い立つと、ゆっくりとテレビのリモコンを取り、チャンネルを次々と変えた。他の番組でイネスのニュースを流していないのを確かめてから、彼女は二人に言った。
「ミナトさん、ユキナさん。私、これからネルガルに問い合わせてみます。エリナさんかプロスさんなら教えてくれると思うんです、この事。何かわかったら学校の方に連絡しますから、今はとにかく二人とも出かけてください」
　静かに振り返ったミナトのまなざしは、悲しみと、何かもう一つの感情に満ちていた。うっすらと口を開いたが、言葉が出るまでにいくばくかの時間がかかった。
「そ、そうだね。うん」
　ミナトがぐらつきながら立ち上がるのを、ユキナは支えに入った。自分が取り乱さんばかりに必死に訴える。
「ミナトさん、送っていってあげる。一緒に行こう」
　肩と腰に添えられるユキナの小さな手に、ミナトは自分の手をそっとあてがった。無理に作ったのがよくわかる笑顔で答える。
「大丈夫だよ。大丈夫。ユキナは急ぐんでしょ」
　彼女はユキナの手を優しくほどく。ユキナを押すようにして自分も歩き出した。台所へ戻りながら、ミナトはルリを振り向いた。
「頼むわね。新しい事がわかったら必ず教えてね」
「はい」
　ルリは真摯に答えた。