「ただいま」
　打ち水のしてある飛び石を渡って勝手口の扉を開けたルリの耳に、女性二人の話し声と、ガラス製の風鈴の音が聞こえた。日傘をたたんで中に入る。肩口にひだのある飾りを付けた袖のほとんどない白のワンピースを着たルリは、二の腕に屋内のひんやりとした涼しさを感じた。
「あ、おかえりぃ。もお、この暑いのにいったいどこに――」
　ミナトが言い終わらない内に、ユキナは茶の間からダッシュでルリの前に到達した。ホットパンツにＴシャツという出で立ちで、息を切らせて尋ねる。
「ルリ、すいか、食べる？　食べるよね、っていうか食べよう！」
　当惑気味に靴を脱いで台所に上がったルリに対して、ユキナは流し台を指さしてみせる。そこには木製の桶が置いてあり、水を張った中に緑色の濃い丸いすいかが一個浮かんでいた。
「あぁ、いただきます」
「待ってました！　あたしが切るから、あんた先に行ってていいよ」
　ユキナが切ると言ったのは自分の取り分を多くするためかと察したが、特に口出しはせず、ルリは茶の間へ向かった。
　茶の間の開け放たれた障子からは、強い陽差しの下であおあおと茂る庭の木々が見えた。ミナトは、オレンジ色の丸首ノースリーブのシャツと薄いクリーム色のスカートを着、白いスカーフで髪を束ね、ちゃぶ台に両腕を乗せていた。怒っているよう見せかけるために、意図的に口をへの字に曲げたふくれっ面をしている。彼女はルリが来たのを見計らって、台の上に置いてあった白い紙を取り、書いてある言葉を読み上げた。
「『出かけてきます。四時頃に帰ります』……これじゃ行き先がわかんないじゃんさー。心配させないでよね、ルリルリ」
　ルリは丁寧に頭を下げた。
「すみません」
　ミナトは、一転して笑顔でルリを促した。
「早く顔洗ってらっしゃい。暑かったでしょ」
　ルリはミナトの言う通りに、洗面所へ行って顔と手、首筋を洗った。タオルで水気をとりながら戻ってくると、ちょうど切り分けられたすいかと食卓塩をユキナが持ってきたところだった。
　だがルリはすぐには座らず、二人を前に、立ったまま話した。
「実は今日、私、連合大学の事務局に行ってきたんです」
　ユキナの差し出す盆からすいかの一切れを取り分けていたミナトは、予想できなかったルリの言葉に戸惑ってしまった。記憶を確かめるようにゆっくりと尋ねた。
「連合大学……ってヨコスカの支部？　なんでまたそんな所に」
　ルリは屋内の心地よい日陰の中で背筋を伸ばし、改まった口調で答えた。
「ミナトさん、ユキナさん。私、軍に入ろうと思うんです」
　ルリの返答に、ミナトは一瞬言葉を失った。突然の事に腰を浮かせ、ルリに問いかける。
「軍？　本当に？」
　ルリは黙ってうなずいた。
　ミナトは混乱する頭の中を整理しようと懸命になった。尻もちでもつくようにその場にぺたりと座り込み、うつむいて畳を見つめる。
　最初ミナトが顔を伏せていたためルリには表情がわからなかったが、やがて顔を上げた彼女の口元には、柔らかい微笑みが浮かんでいた。
「そっかあ、軍にね。自分で決めたんだね」
「……はい」
　ルリは、この時の自分に少し驚いた。なぜなら、普通に答えたつもりだった声が、とても優しい調子になっていたのに気づいたからだ。彼女は、何がそのような口調を生み出したのか判断するべく、考えを巡らせようとした。
　ちゃぶ台にほおづえをつき、縁側近くに置かれた扇風機の方に頭を傾けて二人を見ていたユキナが、いぶかしげな顔つきで言う。
「でもさー、何で軍なわけ？　ミナトさんが民兵登録してるから？　それともー、もしかして、ジュンの奴に何か吹き込まれたりとかぁ」
　ユキナの話しぶりを聞いたミナトはとっさに教育者の顔に戻り、彼女をたしなめにかかった。
「これユキナ！　年上の人を呼び捨てにするんじゃありません」
　だがユキナには全くこたえていない。すました顔つきで食卓塩の瓶を取り、自分の分のすいかに塩をぱらぱらとふりかける。
「いーのよ、あんな軟弱な奴。あたしに言わせれば、せいぜい『ジュンちゃん』止まりよ」
　ジュンに関する性格描写を真っ向から否定することのできなかったミナトは不満げにうなり、ユキナから瓶を奪い取るようにして、自分のすいかに勢いよくふりかける。ルリは、けんかにもならない二人のやり取りを見ながら、ちゃぶ台の前に座った。ミナトの剣幕が収まるのを待つ。
　ルリは静かに話した。
「私、確かめてみたいんです。自分の力を、強さを」
　ユキナとミナトは、手を止めて彼女を注視した。言葉の途切れた茶の間で、扇風機の音が大きく聞こえた。
「これからこの世界で、アキトさんとユリカさんのいない世界で、どれだけちゃんと生きていけるか、確かめてみたいんです」
　遠くの森で鳴いている蝉の声がかすかに聞こえる。視線を定めず自分に言い聞かせるように話していたルリだったが、顔を上げると、ミナトが目を潤ませて見つめているのがわかった。次に発せられたミナトの声はやや震えていた。
「そう。そうなんだ。……良かったね」
　ルリは照れくささからか、目を逸らしてしまった。言葉を付け加える。
「それに、結局のところ私には、軍で任務に就いてるのが一番合ってるみたいな気がするんです」
「ルリルリがそう思うんだったら、きっとそうだよ。……あらっ」
　ミナトは何事か思い出したらしく、急に大声を上げた。
「でもさ、それでどうして大学になるの？」
　せっつくミナトを制止するように、解説口調でルリは答えた。
「まあ手短に言うと、軍に行ったら、学歴のない人はお断り、って門前払い食らっちゃったんです。本当のところ、私はネルガルやセンターで私的な教育しか受けてなかったので、ごもっともなお話なんですけどね」
　ルリはスプーンを取り、自分の分のすいかから一口すくい上げた。二人にも食べることを促し、話を続ける。
「で、どうしようかと思ってたら、ネルガルからお誘いがあったんです。連合大学戦略科への推薦状と、奨学金まで出すと言ってくれて。受験して合格できたら、今度の九月期から編入してもらえることになりました」
　そこでミナトは妙に感心した。おくれ毛をかき上げる。
「ネルガルがねえ。たまにはいい事するのね」
　しかしルリはそう思っていないようだ。他人事のような口振りで言う。
「十年もつきあってると、私の扱いにも手慣れてきてるみたいで。逆に裏があったとしても、私には選択の余地はないみたいです。今から小学校に入学するわけにもいきませんし」
　ミナトは納得したらしく、肩をすくめてうなずいた。
「なるほど。あれえ、でも九月から編入だったら試験はいつ？」
「はい。今日申請書を出して、来週から始まりです。面接と筆記なんですけど」
　ミナトは急に色めき立った。
「なぁに、来週から？　面接もあるの？　じゃあ、きちんとしたお洋服買わなきゃなんないじゃないの。あたし、試験日には付き添いするからね、いいでしょ」
　にわかにあれこれと算段し始めたミナトに対して、ユキナが横目で冷ややかに言う。
「なんか、過保護ママみたぁい」
　ミナトは、ユキナにしかめ面で舌をちらりと見せただけだ。ルリの居住まいを前や横から確かめる。
「これくらい世話焼かせてくれたっていいじゃない、ねえ。そしたらぁ、そう、髪も切りそろえてもらわないとね」
　ルリは、ミナトの言葉を聞いて一瞬だけ硬い表情になった。
「髪は、いいんです。……伸ばそうと思って」
「……そお？」
　ミナトはルリの表情の変化が気になりはしたが、余計な詮索をするのはやめた。手元に目を戻すと、嬉しそうにすいかをすくい上げる。
「そっかぁ、ルリルリが大学生ねえ。ちょっと変な感じ。だけど面白いね」
「あのー、まだ受かったわけじゃないんで、妙な想像しないでもらえます？」
　声をかけるルリにも、ミナトは上の空で口元を緩ませていた。
　すいかにかぶりついていたユキナは、二人に対して聞こえよがしに自分の意見を述べた。
「あたしなんて、高校の受験勉強でアタマいっぱいなのに、大学ぅ？　やんなっちゃうわね、もお」
　それを聞いたミナトは、ユキナに優しく笑いかける。
「大丈夫。ユキナは今のままやってけば、うまくいくって。ルリルリもだよ」
　だがユキナは不服らしく、悩ましげにわざと指先でスプーンを振った。
「そーいうのって、かえってプレッシャー感じちゃうんだけどなあ」
　はっとしたミナトは、ユキナににじり寄り、そっと肩に手を置いた。彼女の耳元に唇を寄せ、ささやくような穏やかな口調で言う。
「春になったら皆で一緒に登校しようよ。きっと楽しいと思うよ」
　顔を近づけるミナトに、ユキナは素直でなかった今の自分の行動を恥じた。決まり悪そうに視線を下に向ける。
「う……うん。わかってるよ」
　ところがルリは、二人の会話に突然割って入った。大きな声ではないが、はっきりと言う。
「すみません、ミナトさん。私、もし合格したら、大学の寮に入ることになってるんです」
「嘘ぉっ」
　声を張り上げるミナトの顔に、信じたくない気持ちが表れているのがよくわかった。ルリは、理解を促すようなゆっくりとした語り口で、事実関係を述べた。
「学生の入寮は義務みたいなんです。それから、在学期間も半年だけなので、学校の近くにいた方が資料を手に入れたりするのに何かと便利じゃないかと」
「ふへーっ」
　今度はユキナが驚きの声を上げた。半年で大学卒業というのが原因のようである。
　ミナトは、何とか自分なりに食い下がろうと、糸口を探した。
「でもさ、休みの日とかには帰ってこられるんでしょ。卒業したら戻ってくるんでしょ？」
「ええ、そのつもりです。けど、卒業後はすぐに兵籍に入る予定なので、あまり長い間は」
　ルリの返事を聞いたミナトは、だだっ子のように首を振った。
「もおー、そんなのやだ」
　ルリにはそんなミナトのしぐさがかわいらしく思えた。いつわらない気持ちで答える。
「短い間でも、帰ってきますよ、必ず。だって」
　ミナトは顔を上げてルリを見た。ルリは体の中にわき上がってきた何かに気持ちを乗せるように、言葉を口に出した。
「だって、ここは私の帰る家ですから。そう思ってますから」
　ルリは言い終えた後、自分の胸に、苦しくはないが痛みのようなものを感じた。だがそれ以上に、安らかな空気が彼女の体全体を覆っていたため、痛みの元が何なのか追求することはしなかった。
　ミナトは目を見開いてルリを見守った。言葉を終えたルリの唇に、そして頬にも、うっすらとではあるが赤みが差してきたのである。それはまるで、春にほころぶ花を見ているようであった。
　ミナトは自分の中の喜びを抑えることができなくなった。満面の笑みで言う。
「うん、そうだそうだ。軍が嫌になったらいつでも帰ってこい！」
　ユキナは、有頂天のミナトをいさめる意味でも、突っ込みを入れねばなるまいと考えた。
「何？　今度は嫁入り前の娘を引き止める頑固オヤジみたいよ」
　ミナトは、彼女の意見に対する敗北をあっさりと認め、朗らかな声で笑った。
「ユキナったらぁ」
　ルリもユキナも微笑んでいた。
　風のやんだ軒先では、ガラス製の風鈴が音を立てることもなくたたずんでいた。

〈了〉