正午を何分か過ぎた頃、それぞれの私服に戻ったルリ達四人はグラウンドの南側にある学生食堂に来ていた。
　赤い厚手のジャケットを着て黒いフェイクレザーのタイトスカートをまとい先頭を歩くエイミが、ガラスの扉を押し開く。
「あー、負けた負けた。完敗よ」
　彼女の口調はあっけらかんとしており、微笑みを浮かべてルリを見やった。
「見かけによらず強いわねー、ルリは」
「どうも」
　ルリは短く答えて会釈しただけだった。彼女は白いブイネックのセーターから藍色のスカートの裾をのぞかせるような格好である。さらに後ろを歩くミユキは落ち着いた色のニットの上下にジャンパーを着込んでいる。最後に扉をくぐったヒナは、模様の少ない白いワンピースの上に、デニム地のボレロをはおっていた。
　食堂の中は、安くて量の多い食事にありつこうと急いでいる学生達でごった返していた。暖かい湯気の噴き出している配膳口には鈴なりの人だかりがあり、また奥のテーブルに向かってはトレーを捧げ持った人々が自分の食事をこぼさないよう注意しながら移動していた。
　四人は献立の並べられたショーケースの前に来た。彩り豊かな蝋細工が整然と並べてある。
　エイミはケースの前に立ちはだかると、両手を腰に当てていばった調子でルリに言った。
「さ、約束は約束だからね、おごってあげるわよ」
　だが彼女のせりふに最も早く応えたのはヒナだった。固く合掌された手のひら越しに見る彼女の瞳はやけに輝いている。
「お・ご・り、ですって?!」
　彼女のまぶしい視線に対して、エイミは呆れ半分で両手を広げる。
「そう、ルリと二人で賭をしてたのよ。シミュレーションに負けた方がお昼をごちそうする、って」
「どうりで今日は気合いが入ってたわけね」
　ミユキは納得の表情を見せた。
　エイミはちらりと後ろのケースを振り返り、今日のメニューを確かめる。
「ラーメンで良いよね、ルリ。しょうゆラーメン」
　彼女は軽く声をかけたつもりだった。
　だが、ルリの反応は意外にも大きかった。エイミの言葉を聞いた途端、誰が見てもわかるほど体をこわばらせたのだ。脇に下ろしていた両手は強く拳を握りしめ、何かを嫌うように顔を伏せる。
　ルリはエイミに対してすんなりと答えはしたが、うつむいていたせいか、口調は沈んだものに聞こえた。
「いえ、ラーメンはちょっと遠慮したいんですけど」
　彼女の返答に、エイミはつい大声を出してしまった。
「え、何、ラーメン嫌いなの？」
「嫌いじゃないです。……嫌いじゃないですけど、今は……食べられなくて」
　エイミはルリをじっと見つめていたが、彼女は決して顔を上げずに答えた。エイミには彼女の様子が腑に落ちなかったが、かと言ってこのままではらちがあきそうにないことも感じ取った。
「ま、しょうがないわね。他のを――」
「それじゃあ『連大丼』に致しましょう！」
　ヒナが、エイミの言葉を途中で無理矢理遮った。彼女の瞳の輝きは先程よりも増している。
「は？　何であんたが決めるのよ?!」
　いきなり横合いから、しかも高級なメニューを差し挟まれたエイミは、声を荒げてヒナを振り返った。
「それはもちろん、『私達』の艦隊が勝ったのですから」
　ルリの隣に立ったヒナは、彼女の肩に手を回して誇らしげにブイサインを出す。
「それとこれとは話が――」
　反論しようとするエイミだったが、今度はミユキが横槍を入れた。
「だったら盛りつけはやっぱり、『月面盛り』よねっ」
　ミユキは小首を傾げ人差し指を立ててしなを作ったが、その実たいそう面白がっていた。
「あーっ、どうしてそうなるかな」
　がなり立てるエイミに対して、ヒナとミユキが次々に注文を加える。
「おまけに、つゆだく！」
「アーンド、もみ海苔トッピング！」
　二方向から言葉を浴びせる彼女らの様子は、先程のシミュレーションでルリが見せたクロスファイヤーにも似ていた。エイミは、自分の懐具合も省みない二人の言いっぷりに困り果てて、黙っているルリに水を向けた。
「ルリぃ、あんたも何とか言ってやってよ」
　ルリはすっと視線を上げた。すぐに口を開いたがためらいを見せ、一拍おいてからつぶやく。
「……卵付きでお願いします」
　エイミががっくりとうなだれたのは言うまでもない。
　四人がそれぞれ胸の前に持ったトレイの上には、ほのかに湯気を立ち上らせるどんぶりが置かれていた。だし汁できらきら輝く具だくさんの炊き込み飯は、地球に比べて曲率の大きい月の表面になぞらえて、どんぶりから顔を出すほどこんもりと盛られていた。また、傍らの小鉢には海苔と卵がしっかりと添えてある。
　他の三人を先導するエイミは、声にも態度にも不満をあらわにしていた。先程から、念仏でも唱えるようにうなっている。
「連大丼、月面盛り、つゆだくにもみ海苔に卵ですってぇ?!　どうしてこういう事になっちゃうわけ？」
　しかしながら、少なくともヒナとミユキの二人は久しぶりの豪華な昼食に浮かれていた。特にヒナは、糸のように目を細め満面の笑みを浮かべている。ミユキがエイミに寄り添って言う。
「こんなに素敵な取り合わせ、見てるだけでうきうきしてくるわー。これぞまさに、『いつでもどこでも何でも楽しく』ってエイミの信条にばっちりかなってるじゃない」
「私はちっとも楽しくないんだってばっ」
　エイミはすごんでいたが、ミユキの笑顔を崩すにはとうてい至らなかった。
　にぎやかな三人の後について、ルリは黙って歩いていた。小鉢の中でころころと揺れる卵を何気なく見ていたのだが、それでも周囲のテーブルからの強い視線には気づかざるを得なかった。
　何人かの人間が、明らかにルリの方を見てひそひそ話をしている。食堂内の雑音のせいで何を言っているのかは聞き取れないが、ルリの目には、彼らの態度がいぶかしく感じられてならなかった。
「ルリさん、ここにお着きになって」
　気がつくと、ヒナ達が四人掛けのテーブルに各々のトレーを置いて着席するところだった。ルリは空いている席へ向かった。
　ルリの向かいに座るエイミは、ルリが見ていた辺りのテーブルにぞんざいに視線を投げた。
「あの子達も飽きないわねえ。まあ、それだけルリに興味があるってことなんだろうけど」
　次いで重たいどんぶりに両手を添えて持ち上げる。
「でも実際、十四歳から一気に飛び級、しかも半年で課程修了なんて言ったら、誰でも気になるか」
　そう言ったエイミは、ルリの顔をひたと見つめた。彼女のもの問いたげな目が、ルリにはいささかまぶしかった。何気なく横へ視線を逸らして答える。
「別に、そんな面白い事なんてありませんよ」
　エイミ達は、彼女の様子がいつものしれっとした態度とは微妙に違う事に気づいた。言葉の調子が弱いのである。エイミはつい問いただそうと口を開いたが、しかし声を出す前にヒナに先を越されてしまった。
「さぁさぁ、早くしないとせっかくのつゆだくが冷めてしまいますわ。連大丼は熱いのをふうふうしながらいただくのがおいしいのですから」
　待ちきれずに強く言うヒナに、エイミは自分の好奇心をそがれてしまった。
「そうだった。皆、この私のせっかくのおごりなんだから、ありがたく食べるのよーっ」
「それはもちろんでしてよ」
　ヒナはエイミの反応に満足したらしく、早速手元のどんぶりにありついた。ルリは何も言わず、彼女の後に続いてどんぶりと箸を取り上げた。

――別に、人が喜ぶような面白い事なんてない。私は私の生き方を見つけようと思っただけ。軍に入ろうと思っただけ。そのためだけに、私はここにいるんだ。ルリはいつしか、自分にそう言い聞かせるようになっていた。他の人がどう想像しているとしても関係ない。なぜなら、彼らは私を知らないのだから、と。
　身を寄せ合って立ち並ぶ針葉樹の間から、明るい朝の陽差しが漏れていた。木々の背後に広がる空には消え入りそうな薄い雲が長くたなびいていて、季節をより強く感じさせる。澄んだ冷たい風に乗って飛ぶ鳥達のさえずりが、人影の少ない構内に朗らかに反響していた。
　道は夜明けまで降っていた雨のせいで濡れており、そこここにできた水たまりには焦げ茶色の木の葉が沈んでいる。
　往来の真ん中に立つルリは、携えた竹ぼうきでもって静かに落ち葉をかき集めていた。空気はりんとして冷たい。彼女がかじかむ手を動かすたびに水たまりには小さな波が立って、水鏡に映える彼女の蒼白な面差しをかき消すのだった。
　彼女は一人だけであり、同じクラスの学生の姿は他に見えなかった。というのも、早朝教練の課題が持久走だったため、彼らは学外の周回コースを走らされているのだ。ルリだけが、年齢に見合う運動量ではなかったことで今回の教練を免除され、代わりに構内の清掃を言い渡されていた。
　キャンパスの敷地は広大で、彼女一人で磨き上げることはとうてい困難だった。もちろん教官はそこまで要求しているわけではなかったが、本人はさして意に介せず、できる限り広い範囲を清掃するつもりでいた。与えられた課題を黙ってこなす、それこそがここでなすべき事であると彼女は考えていた。
　コンクリート・ブロックで仕切られた植え込みのそばで作業していた時、ルリは背後から声をかけられた。
「あれぇ、ルリ、今日はこんなところで庭掃除なの？」
　振り向いた先、校舎に隣接するケヤキの低木のそばに、体操服を着たエイミが立っていた。彼女は言葉を続けながらルリに近づいた。
「濡れ落ち葉、か。見学組も大変だぁね」
　彼女の額には汗一つなく、どう見ても課題の距離を走り抜いてゴールした様子ではない。また手には数本の花をくるんだ新聞紙を持っている。
「エイミさん、おさぼりですか？」
　ずばり質問するルリに、エイミは花束を持ち上げ頬をすり寄せて答える。
「世の中、楽しく生きなきゃねー。ほら、新しい花買ってきたから。今日はダリアだよ」
　しかしルリは彼女の言う事を少し不思議に思った。
「……でもそっちにお花屋さんってありましたっけ？」
　実際、エイミがやって来た方角には倉庫をはじめとした港湾施設があるだけで、その向こうには海が広がっている。一般の商店はないはずだった。
　エイミはやや顔を伏せて微笑んだ。
「まあ、ね。ちょっとお墓参りに行ってたの」
　彼女はそう言ったが、そちらには墓地もないのである。ルリは今ひとつ合点がゆかず、つい問いかける目つきでエイミを見た。
　ルリのそばまで来たエイミは、彼女を見下ろすような形で目を合わせた。
「昔の話。知り合いがね、海で死んだの」
　ルリは黙って彼女を見上げていた。エイミの顔に微笑みはなかった。
「人は……生きてる内に楽しまなきゃ嘘よ。死んじゃったら何もできないんだから」
　エイミは自分の眼鏡のつるに指を当て、口をつぐんだ。
――きっと親しい人だったのだろう、ルリは彼女の表情を見て思った。まるで、少し前までの自分の姿を目にしているようだった。アキトとユリカを失い街をさまよっていた頃の自分を。
　あれから自分はどう変わったのだろうか。少しは強くなれたのか。彼らのいないこの場所で、本当に生きてゆけるようになったのか。知らぬ間にわだかまっていた幾つもの疑問が、彼女の胸中に次々とわき上がってきた。
　しかしながら、彼女にはまだ明確な答えが用意できていない。それどころか、答えが見つかる見込みすらないのだった。
「あーっ」
　突然のエイミのすっとんきょうな声に、ルリは我に返った。エイミはルリの背後の空を見上げている。
　彼女が手を前に掲げる。彼女の指さす地平を振り返ると、陽に照らされた校舎と林の上に覆い被さった、鮮やかな色合いの円弧が見えていた。
「見てよ、ルリ！」
　早朝の横からの光に浮かび上がった虹は、深い青空を背景にくっきりとした半円を描き出していた。
「はあっ。早起きも、たまにはするもんだわね」
　エイミは暖かい吐息とともに言葉を発した。
　ルリは体の向きを変え、まぶしいとさえ思える虹の姿をまっすぐに見上げた。輝く七色の輪は、彼女の前から遠く消えた人々に向けられる墓碑銘のように、彼女には感じられた。
　エイミがルリの隣に立ち、花束を手に持ったまま思い切りよくのびをした。視線は空へ向けたままだ。
「私も早く空を飛びたいなーっ。本当の空を」
　彼女はルリにウィンクをしてみせる。
「シミュレーションなんかじゃなくてね」
　彼女はいつもの明るい表情を取り戻していた。
　横目でエイミの表情の変化を見て取っていたルリは、本心で彼女に答える。
「早くそうなると良いですね」
　しかしその言葉は、エイミにとってはあまり気に入らなかったようだ。おどけた調子で大げさに握り拳をルリの眼前に振りかざした。
「あんたに言われると何かムッとするのよねえ。経験者の余裕っていうかさ」
「……しょうがないじゃないですか、事実なんですから」
　エイミはじっとルリの顔を見た。合点がいったように静かに何度かうなずく。
「そうか……。ルリってさ――」
　しかしエイミの言葉は、遠くから大声で呼びかける誰かに邪魔された。
「エイミ、ルリちゃん！」
　見ると、ミユキとヒナが正門から続く並木道を歩いてくるところだった。ヒナがにこにこしながら言う。
「エイミさん、どこへ行ったかとご心配申し上げましたのに、ずる休みとは感心しませんねえ」
　しかしエイミも負けてはいない。
「って言いつつここにいるあんた達は何なのよお？」
　ヒナはぴたりと足を止め、静かに自分の胸に両手を当てがった。わざとらしく上目遣いで言う。
「それはもちろん、ヒタキ・チームの一員としてチームワークを乱すわけには参りませんでしょ」
　信憑性のなさそうなヒナの返答に、エイミは軽く会釈をし芝居がかった口調で言う。
「それはそれは麗しいことで」
　ミユキがエイミの手にしていた花束を視線で指し示した。
「ああ、お墓参りに行ってたんだ」
「そう」
　ルリはそっとミユキをうかがったが、彼女は普段と変わらぬ表情であった。彼女はエイミが海へ墓参していることを知っているらしい、とルリは思った。
　エイミはやおら花束を肩に担いだ。
「よぉーし、せっかく四人全員そろったんだからぁ、朝ご飯でも食べに行こうかね」
　ミユキとヒナはすぐさま反応した。
「ナイス・アイディア！」
　が、エイミは人差し指を突きつけて彼女らを戒めた。
「わかってると思うけど！　割り勘だからねっ」
　エイミが歩き出すと、二人は彼女の両脇に並んで不平の声を上げた。
「えーっ、そんなあ」
「つれないですわ」
「ちょっとちょっと、それが普通でしょーに」
　皆口々に自分の意見を述べている。三人はすたすたと歩いていったが、エイミが急に振り向いた。
「ルリ、あんたも来なきゃ！」
「え、でも私はまだ掃除が」
　どうという事もなく答えるルリめがけて、ヒナが急ぎ足で歩み寄る。彼女の持っていたほうきを厳かに奪い取り、そばに置いてあったちりとりを取り上げた。
「これは私がかたしておきます」
　次いでエイミが声をかける。
「観念しなさい。だいたいこんな広いところを全部一人でやれなんて誰も言ってないんだからさ」
　ミユキが素早くルリの後ろへ回り込み、両手で背中を支える。
「さあ、きりきり動く！」
　半ば強制的に歩かされるルリを含め、四人は連れ立って校舎群を目指した。虹のかかっている向こう側である。
　四人が去り遊歩道には人気が失せた。道沿いの木々からは、幾つかの輝く朝露が音もなく落ち路面を打っていた。

「さあ、それではいただきましょうか」
　ルリ達の寮部屋のテーブルに載せられたみたらしだんごの大皿の前で、一人気を吐いているのはヒナだった。屋外にいる虫の音も今夜は控え目に聞こえるくらいだ。
「皆さんもどんどん召し上がってくださいね。私は『どなたか』とは違って恩に着せたりするようなことは致しませんので」
　ヒナがだんごを一串取り上げるのとほぼ同時に、向かいに座ってほおづえをついていたエイミが大皿へ手を出した。
「私はもらいもので恩を着せられたかないなー」
　各人の手元にある湯飲みに茶を注ぎ終えたミユキとルリも、とろみのあるたれがたっぷりかかっただんごを取り上げる。
「にしても今回はいつもより多いよね？」
「いただきます」
　だんごをほおばるミユキとルリの様子を見てヒナはうなずき、自分も懸命にぱくついた。
「はい。文化祭の実行委員会で差し入れを用意したそうなんですが、買い過ぎて余ったとおっしゃって」
「ヒナちゃん、詳し過ぎだよぉ。よくそんな事わかるよね」
　ヒナは穏やかな物腰で湯飲みを手に取り、答える。
「これは生まれついての資質と申しましょうか。でもそれだけではなく……」
　ヒナは他の三人をくるりと見回した。特にルリに目を留める。
「ルリさんもいらっしゃることですし、今日はその辺りの因縁をお話し致しましょう」
　そう言うと、彼女は茶を一口すすって喉の調子を整えた。しかしながら右手には次のだんごの一串をしっかり持って離そうとはしていない。
「ミユキさんとエイミさんは私の家の貧乏さ加減はご存知だと思いますけど、一番ひどかったのは四、五年前、そう、戦争が始まった頃ですね。敵の大攻勢で、私達のあばらやなんて本当にあっという間に壊されてしまいました」
　ヒナは手にした串からたれがこぼれそうになっているのに気づき、慌てて一口食べた。彼女が言葉を再開させるまで、ひととき部屋は静かになった。
「家族そろって路頭に迷い、これはもうさすがにだめかしらと思った時、あの人が現れたのです。頼もしげな笑顔に輝く歯が印象的な青年でした」
「……ん？　もしかして、ラブ？」
　ミユキがヒナの二の腕を肘で軽くこづく。しかし彼女は何を隠すでもなく、わずかに笑みを浮かべて続きを話した。
「残念ながら違いますわ。ともかく、その方はアニメのキャラになりきっていてそれはもう暑苦しいくらいの熱血漢だったのですが、私達の惨状を見かねて家の修復を手伝ってくれたんです」
「ふうん」
「おまけにご飯までごちそうしてくださって、あの時は本当に助かりました。地獄で仏、とはこの事ですね」
　ルリはヒナの言葉から、彼女を救ったという男のたたずまいをぼんやりと想像した。青年の振る舞いは、ルリが今まで出会ったことのある誰かに似ていた。が、その男がどういう道をたどったかについて、彼女は思い出すことをためらっていた。
　しばらく黙っていたエイミが、ほおづえをついたまま自分の串を掲げて言う。
「つまりぃ、その頃からもらい癖があったってわけね」
「そうなりますわね。でもこうして周囲の人達から援助の手が差し延べられるおかげで、私はこれまで何とかやってこられたんですの」
　ヒナはまた茶を飲んだ。
「でも、助けてもらってばかりでは何ですし、私もあの人のように誰かを救えたら、という気持ちはございます。だから奨学生になってこの学校に入って。けれど」
　彼女は自分が手にしただんごへ視線を落とした。
「平和を取り戻した今、私達のように戦略術数を学ぶ人間が世に出たところで誰かのお役に立てるのかどうか、はなはだ疑問を感じております」
　落胆のためか細くなってしまった彼女の声には、ミユキが応えた。
「まあ、それはある意味そうなのかもしれない。でも平和を維持するのだってけっこうな仕事なんじゃないかと思うんだけど、どう？」
「それはそうですが……何となくピンと来ませんわ」
　二人は顔を見合わせて黙ってしまった。
「ルリ」
　エイミが湯飲みを口へ運びながら言った。ルリは彼女の方を振り向く。
「ルリは戦争で、何を見てきたの？　どんな人達がいて、何をしていたの？」
　彼女の表情には真剣さが見て取れた。が、ヒナは慌てて彼女を止めにかかった。
「エイミさん、あまり人様の過去に立ち入るのは――」
　言葉を発しようとするヒナを、エイミは片手を挙げて制止した。湯飲みをテーブルに置いて自分の話を続ける。
「もし思い出したくない嫌な事だったら、言わなくてもいいよ。私達を『よそ者』だと思うんだったら、話さなくていい。でも、できれば教えてほしいな。ほら、何せ私達はまだ飛んだことないからさ、知りたいのよ、純粋に」
　もはやヒナも反論はしなかった。三人は神妙な顔つきでルリを見つめている。
　ルリは少しの間答えることができなかった。彼女の胸の中には様々な思いが去来していた。――自分は確かに、地球ばかりでなく月や火星を巡っていた。だが、あの時の想像もつかない出来事の数々や出会った人々の機微を話すことで、彼女らの願いに応えることが本当にできるのだろうか。本当に。
　ルリは控え目に言った。
「……いいですよ、お話します。でも皆さんが期待してるようなものかどうかは」
「いいからいいから」
　ルリは静かにテーブルに手を置き、エイミ達三人をもう一度見回してから、語り始めた。
「私がクルー召集の話を最初に聞いたのは、十一歳になりたての頃でした。会社の上層部から直々にお使いが来たとかで、その人達に会うことになったんです……」
　彼女は自分の記憶を整理しながら、一つ一つの思い出をゆっくりとした口調で話して聞かせた。

　ふと顔を上げると、目の前はいちめんの青い光に包まれていた。そこには何の物体も景色も見出すことができず、ただ淡い青――空の青が広がっているばかりだった。
　ルリは、幻を見ているのかと思って自分の目をこすった。が、風景は変化することがない。足元を見ても地面がなく、青い世界にただ一人浮かんでいるのだった。
　この状況に論理的な解釈を加えようと考え始めた時、遠くで何かの物音がしているのが聞こえた。耳を傾けて注意すると、音と言うよりは人の声のようであった。声の合間には、断続的に浅い呼吸を繰り返している。
――泣き声？　はっきりとは断定できなかったが、人が泣いている声に思える。
　こんな場所で誰が、と考える間もなく、彼女の前に不意に人影が現れた。見ると小さな女の子が、丸めた背をこちらに向けている。オレンジのデニム地のワンピースを着た肩がかすかに震えている。どうやら泣いているのはこの子供らしかった。
　ルリは彼女の姿に見覚えがあった。
「私……」
　髪型や服装から見て、四歳位、企業間の引き抜きにあって北欧の研究施設から移住した頃の自分に似ていた。
　だがルリは、違和感を覚えていた。その頃の自分には、泣いた記憶などなかったからである。生まれたばかりの時はどうか知らないが、彼女が憶えている限り、声を上げて泣いたことなどなかった。
　ルリが考え込んでいると、泣き声がやんだ。少女は丸めていた体をゆっくりと伸ばす。やがて背後にいたルリの気配に気づいたのか、くるりと振り向いた。
　しかしその面差しが見える直前、少女は青い大気の中に溶け込み消えてしまった。
　ルリは彼女の姿を求めて左右へ頭を巡らせたが、周囲にはもはや何の痕跡もなく、元の単色の世界が茫漠と広がっているだけだった。
　突然、近くで声がささやきかけてきた。
「あなたは誰？」
　女の子の声だった。あるいは自分の声に似ているかもしれない、とルリは思った。言葉は続く。
「ここはどこ？　……知らない場所。知らない人がいっぱい」
　その声はすすり泣き始めた。声は四方からルリを押し包み、彼女は息苦しくなった。
「わからない。何も、わからない」
　ルリは立っていることができなくなり、見えない地面にひざまづき喉に手を当てた。周囲の空の青は明るさを失い、視界が急速に暗転した。
　二、三度強くまばたきをすると、厚いカーテンの隙間からひえびえとした朝日が射し込んでいるのが見えた。
　そっと頭を持ち上げると、顔の半ばにまでかかっていたタオルケットがずり落ち、すぐそばにいる人の顔が見えた。絨毯の上に横たわるルリの左側にはエイミとミユキが、右側にはヒナがいて、ルリにすがりつくような格好で眠っていた。三人とも安らかな寝顔である。
――そうだ。昨日はエイミ達に請われるまま、自分の航海体験を延々と話していたのだった。彼女らの興味は並々ならぬもので、事細かな質問と回答の応酬は、全員が喋り疲れて眠りに就くまで続いていた。
　ルリは天井を仰いだ。彼女はエイミ達に体を密着され身動きがとれなかったが、不思議と居心地は悪くない。三人の静かな寝息を聞きながら、ルリはそっとつぶやいた。
「わからない、か」
　彼女はもう一度寝るために目を閉じた。

　色とりどりの万国旗と文化祭のポスターとで埋め尽くされた連絡通路を抜けて、ルリ達は晴れた昼下がりの屋外へと出た。緩やかな坂を下って、グラウンドと外部とを結ぶ入り口へ向かう。
　エイミはいつにも増して上機嫌であった。白いカーディガンとスリットの入った白いロングスカートの裾を揺らして歩きながら、手を後ろに組み深呼吸してみせる。
「んーっ。これぞ秋、って感じよねえ」
　彼女の隣では、今し方催し物のクイズに正解して獲得したりんご飴をうっとりと見つめるヒナが、答えるともなく答えていた。薄い緑のコートの上に巻いた濃い赤のマフラーが印象的である。
「正に。食欲の秋、です」
　しかしミユキがすぐさま異を唱える。彼女はぴったりとしたジーンズと横縞の入ったシャツの上に活動的な厚手のジャンパーをはおり、頭には赤いベレー帽を載せている。
「ノンノン、やっぱりここは芸術の秋でしょーっ！」
　叫んでポーズを決めるミユキが指さす先には、先日来彼女が取りかかっていた看板が、入場アーチの上部に高々と掲げられていた。
「ほーっ、できたんだあ」
　左手を腰に当て右手をまびさしにして看板を見上げるエイミは、素直に感動の声を漏らしている。
「なかなかによろしゅうございますわね」
　ヒナの好評価にミユキは胸を張る。紅潮した頬が、彼女が本当に嬉しがっていることをよく表している。
「でしょ？　実はルリちゃんの体験談を聞いてから、ちょっとひらめくものがあったの」
　ミユキはにこやかな顔をゆっくりルリの方に向けた。
　裾が長めになったモスグリーンのジャケットを着てベージュのマフラーを首に巻き、ギンガムチェックのスカートをはいたルリはきょとんとしていた。
「……いったいあのお話のどの辺からひらめいたんですか？」
「うーん、言葉じゃうまく言えないなあ。ともかく、ひらめいたのよ。それじゃだめかな？」
「いえ、別に構いませんけど」
　実際、ルリにとって事の委細はさして問題ではなかった。むしろ、自分の思い出を何らかの形で誰かに伝えられたことに、彼女は新鮮な気持ちを抱いていたのだった。ルリはもう一度看板を見上げた。きれいに並べられた赤い抽象的な模様に、彼女は確かに懐かしさを感じていた。
「ルリさん、見てくださいな」
　珍しいヒナの大声に彼女が振り向くと、グラウンドの中程に人だかりができていた。彼らが取り囲む仮設ステージの上では、張りぼてを着込んだ二人の学生が型にはまった戦闘シーンを演じている。
「ゲキ・ガンガーですわ」
　段ボールででもできているのかやけに四角ばった張りぼては鮮やかな赤や黄色、青に塗り分けられており、遠目にもそれがゲキ・ガンガーを真似たものであるとわかった。その上グラウンドの縁に据え付けられた大口径のスピーカーからは、ゲキ・ガンガーのテーマ曲が流れ始めた。
――あの曲は、アキトがよく口ずさんでいたもの。嬉しい時も、悲しい時も。
「どこの部か知らないけど、力の入ったアトラクションね」
　声を上げるエイミの隣で、ルリは何かが胸に溢れてくるのを禁じ得なかった。自分の小さな体に注がれる午後の暖かな陽差しが心地よかった。
「あれっ？」
　ミユキがぽかんとした表情で、空の一点を仰いでいた。
「何かこっちに来るよ」
　全員が空を見た。ほぼ真上から、銀色に光る物体がまっすぐに降りてくる。やがて空気を切り裂くエンジン音も聞こえてきた。
「あれは……」
　ルリははっとしてジャケットの襟元を強く握った。風を巻き起こしながらグラウンドに着陸したのは、エステバリスだった。