風はルリのもとまで届き、彼女の頬をなで髪をさらう。
　何が起きたのか、にわかにはわからなかった。浅い緑のボディ・カラーに手入れの行き届いたバーニア、ジョイント、重力波ブレード。細部の造りは微妙に違っていたが、しかし紛れもなくあれは、かつて見慣れた空戦フレームである。ルリは身をこわばらせ、突如現れた大きな機体を言葉もなく見つめた。
「あれって、宇宙軍のエステバリス？」
　風にあおられぬよう髪や服を押さえるエイミが疑問を投げかける。グラウンドに集まっていた他の学生達も手を止め、グラウンドの中央に立ちはだかる金属の巨体をそろって見上げていた。
「おい、本物だよ！」
「こんなに近くで見たの初めてだぁ」
　感嘆の声を漏らす学生達を一度見渡したエステバリスは、きびきびとした動作で姿勢を正し敬礼した。スピーカーからパイロットの声が鳴り響く。
「学生諸君、ご協力多謝！」
　だがそこで、ルリは目を見開いた。
――あの声は……。
　憶えのある声だった。何年かの間一緒に宇宙を飛び回った人物の、よく聞いていた声。
　他の人々とは違う思いを持ってルリが見守る中、次いでエステバリスはその場にひざまずいた。圧搾空気の音とともにアサルト・ピットのハッチが開き、パイロットが勢いよく飛び降りる。地に立った彼は手早くヘルメットを脱ぎ、ルリの方へ顔を向けた。
「……ジュンさん」
　ルリは思わず口走った。軍用のパイロット・スーツを身につけたアオイ・ジュンは、軽く手を振ると大股に彼女のもとへ駆けてきた。
　唖然としているルリの目の前に立ったジュンは、息を弾ませながら言った。
「やあ、ルリちゃん」
　厳しい顔つきの彼は、急いでいるようにも見える。ともかくルリは、あいさつをしようと声を出した。
「こんにちは――」
　しかしジュンは彼女を制止して自分の話を続ける。
「ごめん、ルリちゃん。本当に急で申し訳ないんだけど、今すぐ僕と一緒に、ヒラツカの宇宙軍基地まで来てくれるかな」
「どうか、したんですか？」
　ルリはジュンを落ち着かせようとしたが、彼は構わず言う。
「詳しくは後で。だけどこの話は、君にとってものすごく重要なはずだよ」
　ジュンはいったん区切ってから、改めて明瞭な口調で言葉を継いだ。
「ナデシコの事なんだ」
「……！」
　ジュンの放った一言が、昨夜からルリの胸に渦巻いていたかけがえのない思い出達に、ひとしずくの鮮やかな彩りを落とした。記憶のかけらは次々に膨らみ芽吹いて、柔らかな輝きでもって彼女の体を押し包んだ。
　ルリは思わず一歩足を踏み出した。頭で考えるよりも体が先に行動を起こしてしまう、そんな感じだった。自分の家とも呼ぶことができた場所、とうの昔に宇宙の彼方へ消え去ってしまった船が、今何かを語りかけようとしている。彼女は一刻も早くその意味するところが知りたかった。
　ルリはためらうことなくまっすぐに歩き出す。彼女の仕草を確認したジュンは身をひるがえして、自機のもとへ彼女を導こうとした。
「ルリ！」
　が、その時、鋭い声がルリを呼び止めた。
　反射的に振り返ると、少し離れた場所にたたずむエイミ達三人の姿が目に入った。彼女らは互いに身を寄せ合い、切なげな表情でこちらを見ている。顎を引き身を縮め、胸に握りしめた拳を当てていたエイミが口を開く。
「どこかへ行っちゃうの？」
　彼女の不安な声が、ひととき静けさを取り戻した秋の空気を通してルリの耳を打つ。ルリは一瞬答えに詰まった。
「ルリちゃん」
「ルリさん……」
　ミユキとヒナが呼びかけた。エイミも含めた三人の様子は、昨日ルリの話で大いに盛り上がっていた時のものとは全く違っている。それぞれに訴えかけ求める目つきでルリを見つめている。
　彼女はこの時初めて、この場からの去りがたさ、心残りに気づいた。過去からの呼び声に身を乗り出しながらも、現在に後ろ髪を引かれる思いだった。
　ルリは重々しい動きで三人に向き直った。少しの間視線を横に流していたが、しかし前をしっかり見上げ、優しい声で静かに告げた。
「すぐに戻ってきます。必ず」
　その言葉で彼女らがどう思うかはわからなかったが、ルリは言わずにいられなかった。言い終えた彼女は、ジュンが待っているグラウンドへそろそろと後ずさりを始めた。
「……待ってるから」
　言いあぐねていたエイミが、ついにぽつりと一言漏らした。
　ルリはこくりとうなずくと、彼女らに背を向けエステバリスのもとへ走った。
　機体は出力を上げるエンジンに身震いし、大地を蹴って飛び立った。
「せっかくのところを邪魔しちゃって悪かったね。そこ、狭くない？」
　エステバリスのコックピットに着座したジュンは、計器類を一通り操作した後、隣のルリを振り返って声をかけた。
「はい、大丈夫です」
　臨時の補助席に座るルリは簡潔に答えた。彼女は、前面のスクリーンに映る構内の景色の中で、エイミ達が手を振っている姿が遠ざかるのをじっと見ていた。
　目を離すには忍びない。しかし彼女は、強いるようにふっと横を見てジュンに問いかけた。
「それで、何があったんです」
　ジュンはちらりと振り向いて彼女の視線に応える。
「そうだなぁ……ここで僕が言うよりも、ドックへ行ってミスマル提督に直接聞いた方が良いんじゃないかな」
「……提督が、来てるんですか？」
　驚いて尋ねるルリに、ジュンは微笑んで答えた。
「うん。君が元気にしてるかとても心配していたよ。まあ、心配してるのは提督だけじゃないんだけどね」
「え？」
　ルリにはジュンの最後の一言の意味が解せなかったが、彼はエステバリスを操縦しながら柔らかく微笑むだけで、彼女の疑問には答えなかった。
　答えは宇宙軍のドックにある、という事らしい。ルリはヘルメットをかぶる彼の横顔を見上げて、別の質問をする事にした。
「でも宇宙軍の大尉がわざわざ来なくても、呼んでくれれば私から行きましたよ」
　ヘルメットの階級章を見ながら言うと、ジュンは照れくさそうに笑い、コックピットのコントロール・ボールの上に置いた右手を低く掲げて見せた。
「それは、これの導きだろうね」
　彼の右手の甲には、エステバリスの操縦システムと交信するために輝きを放っているＩＦＳのインターフェイスが、独特の模様を形作っていた。
「士官候補生でこれを付けてる人は本当に珍しいみたいでさ、何かあるとよく駆り出されるんだ」
　ジュンは手を元に戻し、座席に座り直して前を注視した。
「だけどおかげでいろいろな所に行けるし、たくさんの人達に出会えるから、僕にとってはプラスになってるよ」
　彼は操縦桿を微妙に調整しながら、軽くうなずく。
「今日だって、こうしてルリちゃんに会えたわけだし」
　ルリは黙って彼の横顔を眺めていた。彼の表情には意気がみなぎっており、事故後に見受けられた暗さや落ち込みは現れていなかった。――軍で充実した生活を見出すことができたのだろう、多分。ルリはそう思った。
　と、いきなりジュンが大声を上げる。
「あ、そうだ」
　ジュンは操縦をセミオートに切り換えると、傍らのグローブボックスを探り始めた。
　何事かとのぞき込んだルリの目の前に、彼は一輪の花を差し出した。淡いピンク色の花びらを持つ、薔薇である。
「造花だけど、どうぞ。再会の記念に」
　今までの彼とは少々異なる行動にルリは一瞬戸惑ったが、そっと手を伸ばして花の茎に触れた。
「……ありがとうございます」
　ルリは受け取った花をしげしげと見つめた。不思議そうにしている彼女の隣で、ジュンは肩をすくめて言う。
「本当はあの構内で渡して、『薔薇の騎士参上！』なんて決めたかったんだけど、やっぱり気が引けちゃって」
　ルリは顔を上げて彼を見た。淡々とした口調で、だが冷たくはない言葉遣いで彼に答える。
「そういうのは、あのロン毛の会長さん辺りに任せておけば良いんじゃないんですか？」
　彼女のちょっとしたキーワードだけで話題の人物をただちに特定できたジュンは、思わず笑ってしまった。どれだけ長い間離れていても、やはり彼らは一つの船に乗っていたクルーなのである。ジュンは、そして彼の顔を見ていたルリも、その事に何となく気づいた。
「ロン毛の会長さん、か」
　まだ口元を緩ませながら、ジュンは操縦を手動に戻した。スクリーンの映像に集中しようとしたが、ふと何事か思いつき、口の中でつぶやいた。
「ロン毛、ねえ……」
　二人を乗せたエステバリスは秋の高い空に長い飛行機雲を引いて飛んだ。小高い山を越え、海岸線をひたすら飛行して、一本の川が海に注ぐ近くに構築されている宇宙軍ドックへと到達した。
　エステバリスが降下するに連れ、ルリはドックの詳しい様子を見ることができた。海中に半ばせり出したアームを覆う白い楕円形の屋根、周囲に張り巡らされた足場の数々、忙しげに立ち働く人々は、そこで作業が進められている生き生きとした臨場感を彼女に伝えていた。
　ジュンは機動兵器専用ポートに着陸すると、機体の格納をスタッフに任せてルリを近場の建物へと導いた。
「こっちへ」
　ドックの建屋群の中でもひときわ高いガラス張りのビルの中へ、ルリは言われるままに入っていった。
　ビルの中は雑然としており、様々な制服を着た軍人や作業員が早足で行き交っている。
　人々の間を縫うように歩くジュンを追っていたルリは、背後から突然呼びかけられた。
「ホシノ・ルリ」
　声のする方を向くと、通り過ぎる人々の中に、引き締まった感じの落ち着いた紺色のスーツを身にまとったエリナが立っていた。左腕には一束の書類を抱え、右手を腰に当ててルリを見つめている。
「やっぱり来たのね」
　エリナは厳かな物腰でルリにゆっくりと近づいた。彼女の瞳は野心に満ちた輝きを宿しており、唇には自信を表す笑みが浮かんでいる。その姿は、あの葬儀の後の暗さを無理に隠そうとしていた様子ではなく、むしろ数年前初めて彼女に出会った時に近かった。
　ルリは軽くうなずいて挨拶をした。
「こんにちは」
「あなたもいよいよ活動を始めたわね。ま、せいぜい勘が鈍ってないことを祈るわ」
　エリナの口ぶりからすると、彼女はルリがここに来た理由を知っているらしい。ルリは質問をしようと口を開いたが、先に他の人物に声をかけられた。
「どうもこんにちは、ルリさん」
　すぐそばの階段から軽やかに降りてきてエリナの隣に立ったのは、プロスペクターだった。以前と同様の服装で、大福帳と宇宙ソロバンを片手ににこやかに微笑んでいる。
「プロスさん……」
　ルリはかつてのクルー達との思わぬ再会に、驚きと言い表しようのない感情の動きを覚えずにはいられなかった。
　プロスペクターが笑顔を崩さずに彼女に質問する。
「もうミスマル提督にはお会いになりましたかな」
「いえ、これからです」
　二人の会話を聞いてはっとしたジュンは、目指す場所へルリを連れてゆこうと再び歩き出した。しかしエリナが彼を呼んだ。
「アオイ大尉。この書類に目を通した上で、ご意見をいただきたいんですが」
「えっ、でも……」
　ジュンは戸惑った顔を彼女に向けた。が、エリナは強い調子で続ける。
「まぁ、出入りの一業者が言うのも口はばったいんだけど、こちらも緊急の用事ですのであしからず」
　彼女は手にしていた書類をジュンの目の前へ差し出した。
　彼は紙束の一番上に書かれている文章を一目見て、それが彼女の言うように事を急ぐ内容であることを認識した。仕方なしに書類を受け取ると、ルリを振り返り片合掌で頭を低くした。
「ごめん、ルリちゃん。こっちもすぐに片付けなきゃならなくて。すまないけどここからは一人で行ってくれる？」
　彼はルリのそばに立って腰をやや低くし、彼女によくわかるように建物の奥を指さした。
「あそこのエレベータで一番上の階まで上がって、出てすぐの所にある会議室に行けば提督に会えるから」
「わかりました」
　ルリは彼に言われた方向へまっすぐ進んだ。少し歩いたところで三人を振り返る。
「それじゃ、また後で」
「うん」
　ジュンが答える。エリナもプロスペクターも彼女を見ていた。が、通り過ぎる人々に間を遮られ、彼らの姿はすぐに見えなくなってしまった。ルリは余韻に浸る間もなく、もう一度建物の奥を向いてしっかりとした歩を進めた。
　エレベータを使いほどなくして到着した最上階には人気がほとんどなく、青灰色のカーペットが敷き詰められた廊下を歩く自分の足音も密かなものだった。ルリはエレベータの最も近くにあった木造りの分厚いドアをノックした。
「入りたまえ」
　声に従いドアを押して入る。明るい部屋の中は二十名ほどが詰められるだけの広さがあり、コの字型に配置された椅子と机の向こう側にコウイチロウが一人座って待っていた。彼は宇宙軍の制服を着、机の上で組んだ両手を顎の辺りに当てている。厳しい顔つきはいつも通りである。
　ルリは入り口でぺこりと頭を下げた。
「提督、ご無沙汰してます」
　コウイチロウは軽くうなずき返すと、手を差し出して自分の前に置いてある椅子を指し示した。
「よく来てくれた、ルリ君。まあ座りなさい」
　ルリは後ろ手にドアを閉め、柔らかい布の張られた肘掛け付きの席に着いた。コウイチロウは、やや表情を和らげて彼女に語りかけた。
「学校の方はどうかね。勉強は進んでいるかい？」
　ルリは自分の頭の中で、これまでの連合大学での日々を思い起こした。編入、授業、寮生活、文化祭。この二か月間に経験した事柄はいずれも目新しいものであり、学ぶべきところは多かった。そこにいる人々との交流も含めて。
「はい」
　ルリは簡潔に答えた。
　言葉は少なかったものの、コウイチロウはどこか深い所を見つめる彼女の視線から多くの事を感じ取った。彼はとりたてて問いただすことはしなかった。
「そうか……。ところで今日ここに来てもらった理由なんだが、これからすぐに、ある艦のクルーになってもらいたい」
「え？」
　コウイチロウの突然の申し出を、ルリはすぐに理解できなかった。
　当惑しているルリを前に、コウイチロウは話を続けた。手元にある小型のコントロール・パネルを操作してウィンドウを幾つか開く。そこには細かい文字の書類の他、ルリの顔写真なども映っていた。
「軍への編入資格については心配しなくて良い。現在の君の成績が良好な事もあって、来年三月の卒業見込みを取りつけることができたのだ」
　ルリからも見える角度に配置された半透明のウィンドウには、合格印を押されたルリの書類が現れた。コウイチロウは顔を上げてルリのまなざしを捉えた。
「君の同意を得ずに事を進めてしまった点については、申し訳ないと思っている。だが、まぁその我々にも急がねばならない事情ができてしまったのだ」
「詳しく、教えてもらえますか」
　間髪を入れずに問いかけるルリに対してコウイチロウは立ち上がり、彼女にも立つように促した。
「君にあるものを見せよう。ついて来たまえ」
　ルリが席を立つのに合わせて、コウイチロウは机を回り込み入り口の扉を開けた。
「こちらだ」
　廊下に出た彼が向かったのは、ルリが乗ってきたのとは異なる場所にあるエレベータだった。黄色と黒の縞模様がドアやフレームに描かれており、工事用のリフトといった印象である。
　耐久性能のみを満たした金網張りのケージは高速に下ってゆく。コウイチロウは後ろに手を組みきっちりとした姿勢で彼女に語った。
「我々連合宇宙軍は、戦後の平和維持体制構築に積極的に参画するべく、これまでとは違った艦隊編成を模索している」
　ケージが停止しドアが開くと、淡いクリーム色の照明に映える筒状の通路が続いていた。コウイチロウが先に歩を踏み出し、ルリが続く。
「『ワンマン・オペレーション』、それが我々の進める構想の名だ」
「ワンマン……オペレーション」
　通路は遮音が適正に施されているためか、二人の声と靴音以外には何も聞こえなかった。
「さよう。艦船の機関系、武器系、操縦系を可能な限り効率化、省力化する計画だ。最終的には一人の人間が一隻の艦総てを担うことを目標とする」
　二人は通路の端にあるドアの前へやって来た。コウイチロウは壁面のスイッチを押し、同時にルリへの一言を発した。
「その先行実験を行う艦が間もなく完成する。君に乗り組んでもらいたいのは、この船――」
　ドアが音もなく横にスライドし視界が開けた時、ルリは思わず息を呑んだ。
　見開いたルリの目に映ったのは、組み上げられた足場の先に見える戦艦のブリッジ部分と、下に続く胴体部分であった。白と青を基調とした色遣いではあるものの、特徴的なその形は間違えようがなかった。彼女が三年近くの月日を過ごした、思い出深い船に酷似していた。
「ナデシコ……」
　つぶやくルリの隣で、コウイチロウは頭を垂れて同意した。
「試験戦艦、『ナデシコＢ』だ」
　ルリは一歩前に出て、ナデシコＢの姿を端から端まで、見える限りしっかりと目に納めた。先に向かってやや鋭いブリッジ部分、細長い重力波ブレード、配列の異なるエンジン部分。彼女の知っているナデシコとはまた違う、新たな力がみなぎっているのが感じられた。
　声もなく船の姿を眺める彼女の背後から、コウイチロウが朗々と解説を加えた。
「主な諸元はナデシコ級戦艦と同様だが、ワンマン・オペレーションのデータを取得するために実験機器を艦内に設置してある。その分武装は軽くなっておるがな」
　コウイチロウは前に出てルリを振り返った。
「クルーは百八十五名を徴用する予定だ。君にもその一人になってほしい」
　彼は静かに前に回って、正面からルリを見た。厳かな面持ちで言う。
「艦長として」
　さらに信じられない言葉を聞いたルリは、すぐに言葉を返せなかった。胸に手を当てコウイチロウを振り仰ぎ、しばらくしてから口を開いた。
「そんな事……。私はオペレータでは」
　コウイチロウはかぶりを振り、後ろ手にしていた右手を横に広げた。
「いや。君には是非艦長として手腕をふるってほしい。もっと時間をかけて説明できれば良いのだが」
「あの、もう少し詳しく――」
　理由を問いただそうとしたルリだったが、遠くから響いてくる誰かの声に遮られた。
「それについちゃあ、僕から説明しよう」
　視線を移したルリとコウイチロウが見たのは、彼らの立つ足場の反対側にあるリフトで上がってくるアカツキだった。濃い茶色を基調としたスーツを身にまとい、ポケットに手を突っ込んで直立している。
「アカツキさん」
「こ、これは会長」
　口々に相手を名指す二人のもとへ、アカツキは気取った歩き方でやって来た。
「やあ、ルリ君」
　アカツキは軽く手を挙げて挨拶をする。ルリは無言で会釈をした。
　一方コウイチロウは、どういうわけか急にそわそわしだした。
「会長、ルリ君、申し訳ないが私はこれで」
　しかしアカツキは彼の挙動を全く意に介せず、密かに笑いながら言い返した。
「提督。自分で言うのも何ですが――落ち目な一企業の会長と一緒にいたところで、軍民癒着だなんて事にはなりませんよ」
　彼の一言に、コウイチロウはおとなしくその場にとどまることとなった。ルリとの話が済んでいない事もあったのだろう。
　アカツキはルリへと向き直った。
「ところで、宇宙軍もネルガルもこのナデシコＢの就航には力を注いでいる。特に我々ネルガルにとっては大型の受注だったからねえ、できるだけ質の高い船を提供しようと思っているんだよ」
　当を得ないルリは、黙ってアカツキを見上げ話を聞いた。
「特に航法コンピュータだ。現時点で僕達の保有する最高のものを移植した……はずだったんだが、彼がちょっとした反乱を起こしてしまってね」
　彼、という言葉に、ルリは何か感じ取るものがあった。彼女はさらに耳を澄ませた。
「ルリ君がナデシコＢの艦長候補になっていると聞いた途端、君に会わせなければ整備に協力しないと言い出す始末だ。そこで急遽君に来てもらったというわけさ」
「その航法コンピュータって……」
　ルリは最も聞きたい質問を口にした。アカツキはもったいぶってにやりと笑った。
「それは――」
　と、急に二人の間に大きなウィンドウが割って入った。白地の半透明のウィンドウには、はち切れんばかりの大きな文字で『ルリ！』と書いてあった。
「……オモイカネ？」
　ウィンドウの向こう側では、やれやれといった様子でアカツキが肩をすくめている。
　ルリの周囲には次々とウィンドウが開く。それぞれにはオモイカネのシンボルである銅鐸のマークや、『久しぶり！』、『元気？』、『また会えたね！』といった文字が書かれていた。
「オモイカネ、久しぶり」
　ルリは小さくつぶやいた。頬がわずかに紅潮してくるのがわかる。
　コウイチロウは一歩前に進み出て、彼女に優しく語りかけた。
「どうだい、この任務を引き受けてくれるかね」
　オモイカネの出すウィンドウに押し包まれたルリは彼を振り返った。彼は多少口調を変え、言葉を続ける。
「君らしくやってくれれば良い」
「私らしく、ですか」
　ルリは思わず繰り返してしまった。
　昔、ユリカが同じような言葉を使っていたのを思い出した。あの人とこの人はやはり親子なのだ、とルリは改めて感じるに至った。あの人はもうここにはいないが、しかし彼女の思いはこうして周囲の者が保ち続けている。ユリカは、そしてアキトも、皆の中に生き続けているのである。
「……はい。私で良ければ、できるだけの事をやってみます」
　彼女の返事を受けたコウイチロウは力強くうなずいた。
「ありがとう」
「あ、でもその前に」
　ルリは片手を掲げ急いで言い添えた。
「学校の方に連絡を入れて良いですか？　……友達がいるので」
　何事かと思って目を丸くしたコウイチロウだったが、微笑んで答える。
「もちろんだとも。来年の三月に正式に卒業するまでは学業に重きを置いてくれたまえ」
　ルリは小さく頭を下げた。
　しかし黙っていなかったのはオモイカネである。新たなウィンドウを開いて、『友達？』、『誰？』といった質問の文字を矢継ぎ早に表示させた。
　自分の周囲で揺れるウィンドウの群れを眺めながら、ルリは少しだけいたずらっぽい声で答えた。
「一番の友達は、オモイカネだよ。いつでも、ね」
　オモイカネはまだ収まる様子ではなかったが、彼らとは別の場所からまた声が聞こえてきた。アカツキが乗ってきたリフトが再び動いていて、数人の女性が足場へと上がってきたところだった。
　彼女らの内の一人が大声を上げてこちらに手を振る。
「会長！　こんな所で油売ってたんすかあ？」
　アカツキは振り返って返事をする。
「君らにかかっちゃネルガル会長もかたなしだなぁ。おっと、ちょうど良い。君らに紹介したい人がいるんだ」
「えっ？」
　女性達はすたすたと歩み寄ってきて並んだ。全部で五人いる。ルリはアカツキの陰から彼女らの様子をうかがった。
　見た目だけで判断するならば、かなり個性的な面々である。一言で言い表してみると、左から、ヤンキー、ガリ勉、不思議少女、電波、深窓の令嬢、といったところだろうか。
　アカツキは一歩身を引くと、手をかざしてルリを示した。
「君達が乗り組む新造戦艦ナデシコＢの艦長、ホシノ・ルリ君だ」
「きゃーっ、かわいいっ！」
　女性達はアカツキの解説が終わるのも待たずに、ルリに群がった。
　ルリは女性達に騒がれながら頭や肩を触られて少々萎縮してしまった。アカツキがルリに声をかける。
「あー、ルリ君。彼女達にはナデシコＢのオペレータになってもらう事になってるんだ。仲良くやってくれたまえよ……っていうのは余計なせりふかな」
　女性達の喧騒の外で、アカツキは自嘲的に笑った。
　ルリはどうにか彼女らに平静に戻ってもらおうとしたが、なかなかうまくゆかなかった。やっとの思いで一言告げる。
「皆さん、よろしくお願いします」
　その言葉をきっかけにようやく気の済んだらしい女性達は、また横一列に並び直した。一番左の女性が号令をかける。
「それでは、私達の新しい艦長に、敬礼！」
　五人中四人までが額の上に右手を差し出して敬礼をしたが、一番右の女性だけは深々と腰を折ってお辞儀をした。
「どうぞ、よしなに」
　四人は一気に力を失い倒れそうになった。
「ちょっとちょっと、お辞儀してどうすんのさ！」
「だって敬『礼』って言うから」
「そうじゃないと思いますけどぉ」
　女性達はまた一騒ぎ起こし始めた。相手の言う事もろくに聞かず自分の言い分を口々にまくしたてている。
　ルリはそんな彼女らを微笑ましく思った。静かな、だがよく通る声で彼女らに言った。
「どうぞよろしく」
　同時に敬礼をしてみせる。どのような形を取れば良いか相手によく見えるようにゆっくりと手を動かす。
　お辞儀をしてしまった女性はルリの意志を理解し、背筋を伸ばすと同じ格好で敬礼をした。他の女性達も慌てて姿勢を正す。
――また船に乗れる、ナデシコに。オモイカネと、この人達とともに。ルリは胸がいっぱいになるのを感じていた。
　彼女の周囲では、『よろしく』、『新艦長！』、『ホシノ・ルリ』といった文字が描かれたオモイカネのウィンドウが、跳ねながらしばしの間漂っていた。

〈了〉