目覚めた時、辺りはいつにない静寂に包まれていた。ルリはごわつく掛け布団をどけて簡易ベッドから降りると、スリッパを突っかけてすぐそばの窓辺に立った。カーテンを三分の一ほど引く。
　外は一面の雪景色だった。小さな中庭と小径、その先の崖との間を隔てる柵や木立まで、一分の隙もなく真っ白な雪に覆われている。灰色の空からさらに降ってくる雪は粒が大きく、勢いも強い。だが外の物音は雪に吸収されているためか、ほとんど聞こえてこなかった。崖下から広がっている海のどよめきが遠い。
　ルリは、ベッドに掛けてあったガウンを取り上げてはおると、下ろしているため腰まで届く髪をさらって、外へ垂らした。カーテンを全部引き、室内に光を入れる。
「……あ。ルリちゃん。おはよう」
　か細い声に振り返ると、部屋の中央に置かれた大きなベッドに寄り添うように、ユリカが座っていた。頭から白い毛布をすっぽりとかぶり、顔だけのぞかせている。顔色は青白く、まるで病人のようだった。
「ユリカさん。……ずっとそうやってたんですか?!」
　驚くルリに、ユリカは答えることはせず、力無く微笑むだけだった。毛布をゆっくりはだけると、クリーム色のタートル・ネックのカウチン・セーターとオレンジのチノパンを身に着け、藍色のかいまきを肩に掛けているのが見えた。
　ルリは彼女につかつかと歩み寄った。近づくと、まだ薄暗いベッドの周囲に、点滴やモニタ用の医療器具、またそれらをつなぐ長いケーブルが張り巡らされているのが見えてきた。ケーブルの末端は総てベッドの上に集中し、横たえられた一人の男性につながれている。
　ルリは身じろぎ一つしない男をちらりと見やってから、小さな声で、だがとがめるような口調でユリカに言った。
「いくら何でも無茶し過ぎです。いい加減休まないと」
　ユリカは微笑みながら、しかし首を振った。憔悴しているのはルリの目にも明らかだったが、そんなに弱々しい彼女のそぶりに、かえってルリは二の句が継げなかった。ユリカは浅く息を吸って、答えた。
「ごめんね、ルリちゃん。でも、何かしてあげたい、って思うといても立ってもいられなくて。アキトの痛いの、和らげてあげたい」
　ユリカはベッドの上に視線を落とした。清潔な白い掛け布団に覆われて顔だけが見えているアキトは、静かに眠っていたが、眉間には厳しい険相をたたえていた。ユリカはベッドからアキトの右手を引き出しており、両手でそっと握っている。
　ルリは、アキトばかりかユリカまでもが健康を損なうのを見ていられなかった。
「ユリカさん。イネスさんも言ってたじゃないですか。手術はうまくいった、後は本人の体力次第だって。だから今は休んでください。これじゃアキトさんが治る前に、ユリカさんがダウンしちゃいます」
　だがユリカは良い返事をしない。
「ううん。私なんてどうなったっていいよ。アキトの力になってあげたい。私の力を分けてあげたいんだ」
　ルリは、どうにかしてユリカを説き伏せたかった。少し強い言い方もやむを得ないと考え、ユリカに言った。
「アキトさんが目を覚ました時、ユリカさんの元気な顔で迎えてあげた方がいいでしょ？　それに治療に関しては、医療班の人達に任せるしかありません。さあ」
　ユリカは明らかにうなだれて、ルリから視線を逸らした。少ししてから、ぽつりとつぶやいた。
「……どうしてかな。私、ルリちゃんみたいにクールになれないよ」
　ルリは肩を震わせ、息を呑んだ。短い言葉が彼女を震撼させる。ユリカを促すどころか、自分が身動きを取ることができなくなってしまった。
　一瞬の静寂があった。自分の言った事に気づいたユリカは、突然顔を上げて取り繕うような笑顔をルリに向けた。
「あ、あはは、私ったら何言ってんだろね、嫌だなぁ。んー、やっぱり疲れちゃってるのかな。……そうだよね、ルリちゃんの言う通りだね。私、お休みするよ。ありがとう」
　すぐに答えることができないルリに、ユリカは手を差し延べた。ふと真顔になる。
「一つお願いがあるの、聞いてくれる」
　ユリカはルリの手を取った。同時に二人のＩＦＳが反応し、手の甲にあるパターンが小さく鮮やかな光を放った。相互識別のための信号を交換しているのだ。
　ゆっくりと自分の胸元に、ユリカはルリの手を引き寄せた。
「アキトの手を握っててほしいの」
「それは……」
　ルリは躊躇したが、ユリカは懇願するように彼女を見上げる。
「アキトにはわかるのよ。眠っていても感じるみたい。手に触れているとね、一人じゃないってわかるから、寂しくなんてないよ、って教えてあげられる」
　ユリカはそのままルリを導く。ルリはもはや抵抗しなかった。アキトの手を、ユリカにされる通りに握った。
　ユリカが手を離すと、ルリのＩＦＳパターンは輝きを止めた。ユリカは立ち上がって彼女に席を譲る。
「じゃ、私、行くね。後、お願い」
　おぼつかない足取りで、ユリカはルリとアキトから離れた。名残惜しそうにベッドの上のアキトを振り返りつつ、ドアのそばまで進む。彼女が壁のスイッチを入れると、手狭ながらも清潔な病室の全景が照明の下に浮かび上がる。
「あ、それからね、アキトに何か話しかけてあげて。何でもいいから。早く帰ってこられるように呼びかけて、ね」
　ルリはうなずいた。少々ふらついているユリカが心配だったが、かといってアキトの手を離すこともできなかった。
「じゃ」
　ユリカは、ドアがぴたりと閉ざされるまで、ルリとアキトに手を振っていた。
　廊下を去る足音が聞こえなくなるまでドアに目をやっていたルリは、ゆっくりと視線を戻した。アキトの苦しそうな寝顔には全く変化がない。彼の右手を握る自分の手に改めて気づいて、ルリの胸は時ならずときめいた。
　彼女はしばらくの間何もできずに、自分の手を見ていた。今の彼女には、アキトの顔を見るのはつらかったのだ。彼がどんな目に遭って、どんなにつらい選択をしてきたのか、しっかりと聞き届けたいという思いはもちろん変わらなかった。だが、言葉を交わすこともなく見つめるだけなのには、まだ耐えられそうにない。
　彼女は先程のユリカの助言に従い、声だけでもかけてやろうと言葉を選んだ。
「アキトさん」
　背筋を伸ばし、呼吸を整える。
「アキトさん、聞こえますか？　早く元気になってください。ユリカさんのためにも」
　当然ながらアキトの返答はない。ルリは次に言う事を考えたが、これにはしばらく時間がかかった。だがアキトの手を握っている自分の手を見ている内に、知らず知らず言葉が出てきた。
「……憶えてますか？　アキトさんと私が初めて手をつないだ時の事。あの時も、こんな寒い日でしたね」
　ルリは密やかな吐息とともに肩の力を抜いて、自分の記憶にしまい込んでいた出来事をよみがえらせた。
　　　＊　　　＊　　　＊
　緩やかだが長い坂道を、屋台を引いて登るアキトは、しきりに後ろを気にしていた。仕事用の白い服に厚手のジャンパーを着込み、マフラーを首に巻きつけている。
「ルリちゃん、大丈夫？　重くないかい」
　アキトは声をかけるが、ルリは屋台の陰に隠れていて、アキトの視界からは完全に見えなくなっている。
「もう少し強く押しましょうか？」
　聞こえてくるルリの返事に、アキトは急いで反対した。
「あ、いいんだよ、もっとゆっくり押してくれても」
「はい」
　街灯の少ないこの周辺は闇に包まれており、遠くの夜景がよく見えていた。低い雲が空を覆い、街の明かりにぼんやりと映えている。晩秋も過ぎ去り、本格的な冬を迎えようとする、冷え込みの厳しい夜だった。
　やや空気の抜けた車輪が砂混じりの道路を転がるに連れて、ちりちりと小さな音を立てる。アキトは一歩一歩足を踏みしめ、屋台を引きながら空を見上げた。
「ユリカの奴、親父さんとうまくやってるかなあ」
　ルリは、屋台の陰から淡々と彼の独り言に答える。
「出かけた時のユリカさんの様子からすると、難しそうですね」
「けどさぁ、親父さん風邪をこじらせたってんだから、優しくしてやればいいのになあ。二人っきりの親子なんだしさ」
　屋台の後方を振り返って、アキトは素直に自分の気持ちを語るが、ルリには同意できないようだった。彼女は彼女で信ずるところがあった。
「私は、ユリカさんの仮病説を支持しますけど」
　アキトはルリの返答に苦笑いする。
「うぅん、でもさあ、これだけ寒きゃ、誰だって風邪ぐらい引いちゃうよ」
　そこでアキトははたと思い至った。
「そうだ、ルリちゃん、寒くないか？」
　心配げに早口で尋ねてくるアキトに対して、ルリは無感情に答える。
「は？　ああ、寒いですよ」
「えぇっ?!」
　アキトは驚いて足を止めてしまった。
「あ」
　ルリの小さな叫びとともに、何かが屋台の壁に当たる音がアキトの耳に聞こえた。
「あっ、ごめん、ルリちゃん！」
　アキトは急いで輪留めをかけると、屋台の後ろに回って様子を確かめた。ルリは、小さな魚の模様がたくさん入ったどてらを着、深く折り返したジーンズをはいて、フリル入りの小さなエプロンを前に垂らしていた。屋台の板壁に手を添えてたたずんでいる。
「大丈夫か、ルリちゃん」
「平気です。ちょっと肘を打っただけですから」
　アキトはたまらずルリの両手を取った。
「わっ、冷たいっ。これじゃルリちゃんが病気になっちゃうじゃないか」
　そう言うと、アキトは自分のマフラーをほどいてルリの首に巻き付けた。
「寒いならそう言ってくれなきゃ」
　マフラーの生地の多さに、ルリの首とあごは埋もれてしまう。彼女はこもった声でアキトに尋ねた。
「でも、アキトさんはいいんですか？」
　アキトは少しの間考えを巡らせたが、やがて照れたように手を頭の後ろへやる。
「そうだな、俺は、熱血で乗り切るさ」
「……ちょっと信用できないな、それ」
　小さく一言漏らすルリの手を、アキトは再び握って引っ張った。屋台の前へと連れてくる。
「こっちで一緒に引いて行こうよ。手をつないでれば少しは暖かくなるだろ」
「……はい」
　ルリは口ごもりながらも、素直にアキトと隣り合って一緒に屋台を引き始めた。
　彼女の右手から、アキトのぬくもりが伝わってくる。人というものの暖かさを、これほど身近に感じたのは、彼女にとって初めての事だった。この気持ちを言葉では何と言ったら良いのか、彼女はひとしきり考えてみたが、うまい形容は思いつかなかった。
　アキトはどう考えているのか、ルリはそれが知りたくなった。おそるおそる彼の顔をうかがってみる。アキトは彼女の視線に気づくと、にっこり笑ってうなずいた。
　二人の間に、いましばらく会話はなかった。だが隣り合って手を触れているだけで十分なようにルリには思えた。
　アキトは突然何を意識したのか、肩をすくめて坂の下に広がる街並みを眺めた。
「風が吹いてないからまだいいけど、今日はマジで寒いよなあ」
　彼はルリに少し近づき、彼女の手を握り直した。ルリは、握られた手から暖かさがさらに広がるのを感じた。
　アキトは前を見据えて溜め息をつく。
「こんな時、軍のヒーター・ジャケットか生命維持装置でもあれば全然違うんだけどなあ」
　誰に言うでもなくつぶやいた彼に、ルリは答えてみた。
「今の私達がそんなもの持ってたら、立派な横領ですよ」
　それを聞いたアキトは異様に慌てて、言葉をつかえさせながら否定する。
「ち、ち、違うよ。例えば、そう例えばの話だって」
　ルリは冗談のつもりで言ったのだが、アキトのあまりにストレートな反応が面白かったため、真意は打ち明けずにいることにした。
「ねえ、ルリちゃん、信じてよぉ」
「……」
　アキトは冷や汗まみれで弁解を試みる。握る手にも力がこもる。だがルリは一切答えず、屋台を引くだけだった。
　そんな事をしていると、遠くから走ってくる足音が聞こえた。
「おーい、アキトぉ、ルリちゃーん。たっだいまぁ」
　ユリカの朗らかな声がした。まばらな街灯に照らされた彼女は白いロングコートとブーツというよそ行きの服装であったが、元気よく手を振り走ってくる。
　アキトは不思議そうな顔をした。
「あれ？　看病にしちゃ帰ってくるの早いな」
　アキト達の目の前にたどり着いたユリカは、息を切らせながらも大した勢いでしゃべった。
「ねえねえちょっと聞いてよ。お父様ったら、風邪引いて苦しいなんて、全然ウソ！　行ってみたらもうピンピンしてて、微熱もないんだから。これって許せないよね」
　ユリカはふくれっ面になる。アキトは何と答えたら良いかわからず、曖昧な笑いを浮かべて頬を掻いていた。
　ルリは、誰にも聞こえないように小さな声でささやいた。
「提督、ご苦労様。いえ、ご愁傷様」
　　　＊　　　＊　　　＊
　ドアの外で人の話し声が聞こえた。回診の時間かと思ったが、それにしてはにぎやかである。ドアがノックされる。
「はい、どうぞ」
　ルリはアキトの手をベッドに戻して布団を掛けると、振り返って返事をした。開いた扉から入ってきたのはホウメイ・ガールズであった。
「こんにちはー」
「あ、ルリちゃあん、来たよぉ」
「外、すごい事になってるよ」
　コートを脱ぎながら、皆口々に挨拶の言葉を発する。胸に幾何学模様の編み込まれた赤いセーターを着たエリと、柔らかい生地でできた蘭の花のようなリボンで襟を飾るミカコは、腰のくびれの目立つ活発な雰囲気のスレート・グレーのスーツを着て花束を持ったサユリの後ろからブイサインを出している。ジュンコは珍しく髪をリボンでまとめ、幅の広い白い襟を備えた紺のカーディガンを着て後に続いている。ハルミはベージュのセーターの上に重ねたスカーフの結び目を整えていた。
　ルリは椅子から立ち上がって五人を迎えた。彼女は既に髪を整え着替えており、モヘアのシャツの上に厚手で丈の長いグレーの上着、そして落ち着いた赤色に染められた細身なニットのロング・スカートという服装をしていた。
「こんにちは」
　ブイサインで応えるルリを前に、エリは歓声を上げる。
「うわあ！　ここからだと雪景色が良く見えるね」
　サユリが驚いて彼女を黙らせる。自分が病室にいることを気づかされたエリは、苦笑いで恐縮し、言い繕った。
「こうやってお部屋の中から見てるときれいなんだよねぇ。それにぃ、色白のルリちゃんが真ん中にいると、んー何て言うか、雪だるまみたいで風景にマッチしてるというか」
　ミカコとジュンコは吹き出してしまった。何がおかしいのか良くわからないエリに、ハルミが言う。
「それを言うなら、雪の精とか、せめて雪んこくらい言ってあげなきゃ、ルリちゃんがかわいそうでしょ」
　ようやく合点がいったエリは、舌を出し両手を合わせてルリに頭を下げた。
「ごめんごめん、許してチョ」
　ルリは彼女に頭を上げてもらいたくて、自分の手を振った。
「いいんですよ。雪女って言われるよりかは、ましです」
　ルリの冗句に慣れていないホウメイ・ガールズは一瞬動きを止めたが、すぐに屈託なく笑った。
　五人のためにルリは奥へ丸椅子を取りに行った。女性達の笑い声が途絶えると、病室には元の静けさが満ちた。幾つものラックやワゴンにしつらえられた医療器具の発する電子音は単調で、その場のにぎやかしにもならない。
　花束を渡した後、案内されて椅子に座ったサユリは、ルリに尋ねた。
「アキトさんの具合はどう？」
　窓辺に行って花瓶の用意を始めたルリは、後ろ姿で答える。彼女の薄い色の髪や白いうなじは、外の雪景色に正に溶け込むかのようであった。
「はい。相変わらずですね。イネスさんは、もう目を覚ましても良い頃だって言ってるんですけど」
　サユリはベッドの上に横たわるアキトの顔を眺めると、自分も痛みを味わっているかのような苦しい表情になった。
「そう……」
　他のメンバーもサユリの周りに集まって、ベッドをのぞき込んだ。アキトのつらそうな表情を目の当たりにしたミカコは、ハルミの肩にしがみつくように身を寄せた。
　メンバーの雰囲気を察したサユリは、話題を変えようとルリに質問した。
「あ、ところで、ユリカさんはいないの？」
　花を生け終わったルリは、お茶を用意するべく手を拭きながら彼女を振り返った。
「ええ、ちょっとお疲れみたいだったんで、お願いして休んでもらいました」
　サユリは深くうなずくとルリから目を逸らし、当てもなく病室の壁を眺めた。染み一つない壁には、蛍光灯の光よりも、外の雪の漠然とした照り返しが多く当たっていた。
「ユリカさんも、あまりふさぎ込まないで早くいつもの元気を取り戻してほしい。今のままじゃ、まるでお日様が消えちゃったみたいだもん」
　ルリの胸を、今朝方のユリカの一言がよぎる。彼女はサユリ達のそばにやって来てたたずんだが、答える言葉は暗い調子になってしまっていた。
「その通りですね」
　ユリカの話をしていて自分の方が落ち込みそうになったサユリは急に頭を二、三度横に振り、申し訳なさそうな顔でルリを見上げた。
「私達も、これほど忙しくなければもっとお手伝いに来てあげられるのになあ。ごめんね、ルリちゃん」
　ルリの腕に手を添える彼女に、ルリは微笑み返した。
「いえ、こうして来てくださるだけでも嬉しいですよ。アキトさんも――」
　そこで勢いよくドアが開いて、セイヤが入ってきた。服装はいつもの作業服で、両手には果物かごをぶら下げている。
「オーッス。おぅ、お前らも来てたのか」
　セイヤがかごを持った手を挙げて挨拶すると、ホウメイ・ガールズ達も手を振って応える。セイヤはアキトが寝ている枕元へ近づいた。
「どうだ、アキトの様子は。……なんだ、まだ寝てやがんのか。せっかく見舞いを持ってきてやったってのによ」
　彼は果物かごをテーブルの上へ置いた。中身がこぼれ落ちそうに揺れる。エリ達は目を丸くしてそれに注目した。
「たっくさんあるねぇ」
「でも、何かバナナばっかりだよ」
　首を傾げるジュンコに、セイヤは胸を張って答えた。
「お前ら知らねえな。バナナと言やあ昔は高級品で、病気にならなきゃ食えなかったんだぞぉ。んで、食った奴はあまりのありがたさに病気が治っちまうのさ」
　ミカコは半信半疑ながらも感嘆の声を上げた。
「へぇー、そうなんだ」
　彼女の言葉にますます胸を突き出すセイヤだったが、サユリは指を顎に当てて真面目に考えていた。
「私もどっかで聞いたことあります。でも、それっていつの時代の話です？」
　セイヤの返事はとたんに弱気に転じていた。
「あー、まぁ、少なくとも俺の生まれる前の事だな」
　彼は腰に手を当て、後頭部を無造作に掻いた。
「しっかし、本人が起きてないんじゃ本当に病気に効くかどうか試せねえなあ。……しょうがねえ、皆で食っちまってくれよ」
「えっ?!」
　エリとジュンコが合掌して目を輝かせている。セイヤは口元で涼しく笑いうなずいたが、サユリは遠慮がちだった。
「でも、いいんですか？」
「あーあーいいってことよ。この調子じゃアキトのヤローいつ目を覚ますかわかんねえし、覚めたら覚めたでまた持ってくるさ」
「じゃお皿を」
　ルリは奥の棚にしまってある食器を取りに赴いた。セイヤは腕組みをし、足を踏みならして視線を泳がせる。別の事を気にし始めた様子だった。
「まったく、イネスもこれくらいの病人、ちゃっちゃと治せってんだよなぁ。あの魔女並みの科学力でよ」
　言い捨てるセイヤに、ミカコが甲高い声で反応する。
「うわ、きっつーい。イネスさんと何かあったの？」
　セイヤはぞんざいに答える。
「あ？　あぁ、いやな、実はこの前医務室に行ったらよぉ、イネスの奴が、あのチューリップ・クリスタルで――」
　セイヤの目の前に突然、音とともに大きなウィンドウが開いた。無表情なイネスの顔が現れる。
「のわぁっ！」
　驚いてのけぞったセイヤは、もんどり打って転びそうになる。だがそんなセイヤには注意を払わず、イネスはウィンドウ越しに病室内を見渡していた。
「あら、今日はたくさんお見舞いに来てるみたいね」
　セイヤが腰を押さえて立ち上がってきた。口をとがらせてイネスに文句を言い出す。
「ったく、急に出てくんなよぉ、びっくりするじゃねえか」
「そんな事言ったって仕方ないじゃないの。……それとも、急に出てこられちゃまずいような事でもあるのかしら？」
　彼女に指摘されたセイヤは、平静を装ってはいたが、すでに腰を低くし後ずさりを始めていた。
「いや、別に。あっそうだ、俺まだ整備があるんだった。じゃなっ」
　彼はそう言うなり手を振って、逃げるように病室から去った。彼の様子を、イネスを含めた女性陣は呆気にとられて見送っていた。
　イネスはどうにも解せない様子だったが、ルリやホウメイ・ガールズに問いただすまでには至らなかった。気を取り直してルリに声をかける。
「ところでルリさん。今ちょっといいかしら、聞きたい事があるんだけど」
　ルリはサユリ達を見た。彼女らはうなずいてルリを促した。
「はい、いいですよ」
「じゃあ、第二診察室に来てくれる？」
「はい」
　ウィンドウは音とともにかき消えた。ルリはホウメイ・ガールズに改めて向き直った。
「皆さん、もし時間の方よろしければ、アキトさんの事見ててもらえますか」
　サユリは大きくうなずいた。ジュンコは片目を閉じてみせ、全員を代表するように力強く言う。
「全然オッケーよ、頼りにしてちょうだい」
　ルリは軽く頭を下げる。
「よろしくお願いします。あ、それからお願いついでにもう少し」
　アキトの枕元にある、パイプで組まれた小さなテーブルの上にある白塗りの洗面器を指さす。そのへりには、たたまれたタオルが乗せてあった。
「洗面器の水を換えておいてもらえますか？」
　これにはミカコが答える。
「はいはぁい、お任せえ」
　彼女はそそくさと作業にかかる。次いでルリはサユリ達を振り返った。
「もしかしたらイネスさん以外の人が回診に来るかもしれませんけど、その時は一緒に点滴の残量を確認してください。それから食べ終わった果物の皮は廊下の隅にある生ゴミ入れに、かごは陽の当たらないテーブルの下に。食器は水道の所に置いといてくれれば私が洗っておきます。後は、もし甘いものがほしかったら棚の上にお菓子の缶がありますから、どうぞ」
　いつもの抑制のきいた口調でもってよどみなく言い切るルリに、一同は感動の声を上げた。
「何か、てきぱきしてるぅ」
「さすが、艦長さん」
　妙なところで讃辞を与えられたルリは、気恥ずかしく身をすくめた格好でドアへ向かった。
「じゃ、すぐ戻ると思いますけど、よろしくお願いします」
　ルリは手を振るホウメイ・ガールズに応えながら、静かにドアを閉めた。
　ひっそりと静まり返った廊下はまっすぐで見通しが良い。片側の壁に連なっている窓からは、灰色の空と降り注ぐ白い雪が見えていて、世界をモノトーンの中に沈めていた。
　この地方では、これだけの大雪になることはとても珍しかった。昨日の朝から降り通しである。ニュースによれば、この天候のおかげで市街地の交通はほとんど麻痺しており、外を歩く人々はだいぶ難儀しているようだった。
　海のすぐそばに広がる閑静な松林の中に建っているこの療養所――ネルガル私有の医療施設だ――は、周囲に他の建物がないこともあってか交通の便が非常に悪く、医療機器の搬出入や見舞客の出入り以外には人が通ることはあまりない。その分、アキトのような、影の世界に属していた人間を保護するには好都合な場所だったと言えるだろう。
　ルリは人気のない廊下を進んだ。どうも今はアキトの他に患者はいないようで、医療スタッフや関係者以外とは誰ともすれ違うことがなかった。
　右へ曲がると、別棟へ通じる渡り廊下がある。彼女はガラスのドアを押し開けながら、数週間前、ここをユリカとともに走っていた自分を思い出した。