＊　　　＊　　　＊
「急いで！」
　ウィンドウに映ったイネスは切迫した様子でルリとユリカに呼びかけた。空中の高い位置をまっすぐに移動するウィンドウに先導される形で、二人は人影の途絶えた廊下を走る。響き渡る靴音は、本来なら静寂に包まれているであろう昼下がりの療養所を激しくかき乱していた。
　先に渡り廊下の前にたどり着いたユリカは、ガラスのドアを大きく開いてルリの到着を待った。
「すみませんっ」
　ルリがドアを駆け抜けると、ユリカもすぐさま後を追う。渡り廊下を隔てた別棟にある集中治療室が、二人の目指す場所だった。
　階段を駆け上がり二階の床に立つ。ふと、耳に、廊下の奥から人の叫び声がこだましてくる。アキトだった。
「――放せ、俺を放せっ！」
　確かにアキトではあったが、語気が全く違っていた。抑えもきかずわめき散らすその声は、まるで狂人のようだった。
　ようやく治療室に至りドアを飛び込んだルリとユリカが目にしたのは、ベッドの上でもがくアキトの姿だった。彼は幅広の拘束帯で胴と腕を固定されていた。体を動かすたびに腕に刺さっている管が引かれ、点滴の器具を激しく揺らす。患者用ローブのはだけた部分からは、縫合して間もない生々しい傷口がのぞいていた。
　が、それにも増して目を捉えるのは、輝きを放ってアキトの体を駆けめぐるナノマシンのパターンであった。平行線や同心円を作るパターンは胸から首筋を伝って頬に広がり、見開かれた眼球や、叫ぶたびに見える口の中、舌先にまで見えていた。
「アキトっ……！」
　ユリカは両手で口を覆い、目の当たりにしている光景に耐えようと必死になっていた。ルリは一歩前へ進み出たが声を出すことはできず、アキトと、枕元で彼に相対しているイネスを見守るばかりだった。周囲にいる数人の医療スタッフも同様に、緊張した面持ちで立ちすくんでいる。
　イネスはできるだけ冷静に対処しようと、口調を和らげて語りかけた。
「アキト君、落ち着いて。君の怪我はまだ――」
「違う！　俺を放してくれ、早く行かなきゃ……早く！」
　アキトの全身を埋め尽くすパターンが脈打つ。
　ルリは、これほどまでに荒れるアキトを見たことがなかった。ナデシコにともに乗っていた頃、怒りの感情をあらわにする事が一、二度ありはしたが、それでもこんな、総てを拒絶するような状態ではなかった。
　アキトは何とか束縛から逃れようと、歯を食いしばり拳に力を込める。
「早く……助けなきゃ」
「アキ――」
「――ラピス！」
　アキトは右腕を振り上げた。拘束帯が二つにちぎれ、吹き飛ぶ。
　アキトはベッドを蹴るようにして飛び降りた。勢いで点滴の針が引き抜かれる。裸足で床に降り立ったアキトは、何かにとりつかれたかのごとくにせわしなく左右を見回す。
　外への出口を探し求めるアキトの前に、イネスが立ちはだかった。厳しい声で言い放つ。
「テンカワ・アキト、ベッドへ戻りなさい」
「どいてくれ、俺は行かなきゃならないんだ」
　彼女の言葉に耳を貸さないアキトは、彼女を押しのけてでも進もうと近づく。
　イネスはとっさに右腕を前に差し出した。手には拳銃の形をしたインジェクターが握られていた。
「戻りなさい」
　いきなり銃のようなものを押しつけられたアキトは反射的に胸に手をやる。しかしそこには、かつて常備していた彼の拳銃はなかった。
「う、あぁぁ……！」
　アキトはわなわなと震え、言葉にならない叫びを上げて天を仰いだ。体中のパターンが再び脈打ち、体全体が淡い光を放った。
　肩で息をする彼は再び前を見る。鋭い目つきでイネスを見据え、吠えかかるように叫んだ。
「……誰だ、お前は。そこをどけ！」
　イネスは躊躇なく引き金を引いた。圧縮ガスが噴き出し、むき出しになっていたアキトの腕に薬品が注入される。
「何を……」
　アキトは言葉を最後まで言いきることができなかった。急激に足腰の力が失われ、前のめりになる。頭から床へ落ちそうになる彼を、医療スタッフとユリカ、ルリが支えに入って、どうにか昏倒することは防がれた。
　散乱した医療機器で足の踏み場もない床から、自分で体を動かすことのできないアキトは数人の手で抱え上げられ、元の通りにベッドに横たえられた。
　ルリはイネスの前に回り込んだ。問い詰める彼女の語調は、いつにもなく荒げられていた。
「イネスさん?!」
　イネスはステンレスのテーブルの上にインジェクターを置き、伏し目がちに腕を組んで、こともなげに言う。
「大丈夫、ただの鎮静剤よ」
　ゆっくりと視線をアキトへ移す。
「彼にはいい薬だわ」
　彼女の目に映るアキトは息も絶え絶えだった。ナノマシンのパターンは輝きをひそめてはいたが、今彼を縛りつける鎖のように、彼の体の隅々まで覆い尽くしていた。
　押し黙ったルリは肩越しに、彼の様子を見つめていた。面と向かって直視することはどうしてもできない。いつの間にか自分のスカートの裾をつかんでいた右手に力がこもる。
　ユリカはベッドの脇にひざまづき、泣き出しそうな表情で彼をのぞき込んでいた。
　静寂が訪れる。アキトは、小刻みに震える手をやっと持ち上げると、握り拳を作り、強く前に突き出そうとした。だが腕は彼の意に反して落下し、平らなベッドの表面を弱々しく叩いただけだった。
「――まただ」
　もう一度叩く。
「また、助けられなかった」
　手が止まる。次に発せられた声は、細くうわずっていた。
「……どうしていつもこうなんだ。どうして俺は救うことができないんだ。……ガイ、イツキさん、……ユリカ」
　その時ユリカは、ベッドに近づいて静かに身を寄せ、彼に顔を近づけた。つややかな黒髪が、濃い緑の上着の表面をさらさらと流れる。彼女はそっとささやいた。
「アキト、呼んだ？」
　声に気づいたアキトは、目をしばたたいて彼女を見上げた。
「ユリカ……？」
　彼は思い通りに動かない手を強いてそろそろと伸ばした。長い時間をかけてついにユリカの頬に触れる。アキトの変わらない暖かさを近くで感じることができたユリカは、胸にあふれる安堵を、微笑みで表した。
「そうだよ、ユリカだよ。久しぶりだね。えへ」
　アキトの手がたどたどしくユリカの頬をなでる。彼女は首を傾げて、彼が自分の顔に触れやすいようにした。
　交わす言葉もなく二人は互いを確かめ合った。やがて幾つもの光を宿すユリカの両目いっぱいに溜まった涙が、ついに一筋こぼれてアキトの指を伝った。彼はナノマシンに冒された瞳で、確かにユリカを見つめた。
「良かった……ユリカ……」
　彼はこの施設に運ばれて初めての微笑みを見せると同時に、体の力を失い目を閉じた。ユリカの頬に添えられていた手が、ベッドにぱたりと落ちた。
　ユリカはアキトの手が離れる瞬間の喪失感に、耐えきれず叫びを上げた。
「アキト?!」
「やっと眠ったわね」
　イネスが間髪入れずに言う。
「アキト！」
　ユリカは、生気を失ってベッドに沈み込んでいるアキトの手を取り、声を絞り出すようにして彼に呼びかけた。ユリカの必死な様子とは裏腹に、彼女の手の甲ではＩＦＳパターンが無機質な輝きを放っている。
　ルリは、二人の姿をただ見ているだけのイネスに問いただした。
「イネスさん、どういう事なんですか？　ちゃんと説明してください」
　イネスは自虐的な笑みを浮かべると、前にきつく組んでいた腕をほどいた。
「説明？　いいわよ、いくらでもしてあげる」
　治療室の中央へ進み出て、他のスタッフに合図する。
「皆、悪いけど席を外してもらえるかしら」
　白衣をまとった医師や看護士らは、点滴の設定だけ元に戻し、すみやかに部屋を立ち去った。イネスは、残されたルリとユリカの様子を目で確かめる。
「そのままでいいから、ユリカ嬢も聞いて」
　ユリカはアキトからなかなか目が離せなかったが、イネスの言葉に耳を貸そうと体の向きを変えた。イネスは、声が外に漏れないように、かつ二人に真意が伝わるように、低く明瞭な口調で話した。
「二人とも、アキト君の体にどんな事が起きたかは知ってるわね。――『火星の後継者』の行った人体実験の影響で、感覚器官の麻痺が著しい。でもね、今回彼の治療と検査をしてみて、もっと憂慮すべき事態に陥っていることがわかったの」
　イネスはためらっているのか、すぐには言葉を再開させなかった。壁際のワゴンに歩み寄ると、乱れた医療器具のそばに置かれたカルテを拾い上げた。ユリカは自分を落ち着かせるかのごとく静かに頭を巡らせて、彼女の去就を見つめた。
「奴らにもう一度、体をいじられたのね。これまではまだある程度保たれていた彼の五感の機能が、どんどん弱まっているの。この病院で怪我の手術をする前と比べても明らかに違うわ。それと呼び合っているのか、判断力の低下や記憶の混乱も生じているみたい。さっきの彼の荒れ様、見たでしょ。興奮すると特にひどいのよ」
　ルリは、どう切り出したら良いか迷っているユリカの代わりに、イネスに尋ねた。
「元に、戻るんですか」
　彼女への返事を口にするイネスの表情は、決して明るくなどなかった。
「一言で言うなら、このままではダメ。彼の今の体に一般的な治療法は通用しないわ。もちろん、ネルガルの医療技術を投入すればある程度のところで病状の進行をくい止めることはできるでしょうけど、あまり期待しない方が良いわね」
　彼女はカルテに目を落とした。ルリは、無意識にイネスの言葉を避けようとしたのか、ふと傍らへ視線をやった。と、彼女はそこに、目に涙を溜めてうつむいているユリカを見てしまった。ルリは、自分はともかく、これまでアキトから長い間離されていた彼女が、変わり果てた彼の姿とともにつきつけられた過酷な現実に耐えられるのかどうか、判断できなかった。
　ルリは不安定になりそうな自分の気持ちを振り払い、できるだけ合理的な方策を見出そうと再び尋ねた。
「本当に治療法はないんですか？　匿名にして連合にデータを提出すれば、なるべく感づかれずに調査することはできるんじゃないんですか」
　カルテを確認し終えたイネスは何も答えず、ベッドに近づいてユリカの肩に触れた。
「さあ、彼を病室に運びましょう」
　不安を残しながらもユリカはアキトの手をそっと元に戻し、すごすごと後ずさりしてイネスのために場所を空けた。イネスはカルテをアキトの足下に置くと、ベッドの側面についたパネルのスイッチを慣れた手つきで押した。静かなモーターの音とともにベッドは持ち上がり、足の先から黒い車輪が現れる。続いて彼女が両脇の防護柵を押し上げるのに合わせて、透明な筒状の保護スクリーンがベッドの下からスライドし、アキトの体を覆った。
　彼女は軽い力でベッドを押し、治療室の出口を目指す。神妙な顔つきのユリカが後に続き、ルリは彼女のすぐ隣に寄り添った。
「イネスさん」
　人気のない廊下を一言も口をきかずにベッドを運んでゆくイネスに、ルリは答えを求めた。すると彼女は振り返らずに左手を掲げ、人差し指一本を立てて見せた。
「これは確信を持って言える事ではないんだけれど、彼を奴らの呪縛から解く方法が一つ、ないわけでもない」
「それは……」
　ユリカが、硬く握った拳を胸に当ててつぶやくように声を発した。
「ラピス・ラズリさん、ですか」
　イネスは横目でちらりとユリカの顔をうかがったが、すぐにまた前を向いた。
「残念ながらそれは違うわ。彼女の現在の能力でできるのは、アキト君をサポートするところまでね。治すことはできない」
「それじゃあ」
　すがるように尋ねるユリカに、イネスは冷静な口調で答えた。
「ウイルスよ。コンピュータ・ウイルスをアキト君の体内に侵入させて、ナノマシンを全滅させるの」
　彼女の背中を見つめていたルリは、想像していなかった答えに戸惑いを覚えた。なぜなら、ＩＦＳ適用者に対してそんな療法が今まで全く試みられなかった大きな理由が存在するからだ。
「イネスさん、ＩＦＳにはウイルス・プルーフにもとづいた保護回路が組み込まれているはずですが。そのおかげで、一度注入されたら二度と取り外すことができないんですよね」
　イネスはさっと手を振ってルリを制止した。搬送用のエレベーターの前に着いていたイネスはその手でボタンを押す。ドアはすぐに開き、わずかな明かりに照らされた広いエレベーター・ルームが姿を現した。彼女はベッドの前に回り込んで中に導く。
　ドアがぴたりと閉ざされるのと同時に、エレベーターはほとんど振動もなく下へ動き出した。イネスは諭すような口調でルリに答えた。
「これまでは、ね。でも今は違う、少なくとも可能性は出てきた」
　彼女はベッドに軽く寄りかかり身を乗り出した。少々乱れた前髪が意志を秘めた輝きを放つ瞳にかかった。
「それには三つの力が深く関係しているわ。すなわち、ナデシコＣの強力なハッキング能力、オモイカネの卓越したデータ処理能力。そして――」
　彼女はつと顔を上げ、鋭い視線でルリを見つめた。
「ホシノ・ルリ、あなたの超人的な情報管制能力。これら三つの力を一つに合わせた時、禁断の扉は開かれる」
　イネスの背後にしつらえられたドアが静かに開いた。彼女はしずしずとベッドを引き出しにかかる。
　ルリは顎を引き、口を固く結んだ。自分達の力でアキトを取り戻すことができるかもしれない、確信ではないが大きな希望が胸の中に膨らんでくるのをルリは感じた。だが、すぐにそれを受け入れることは、なぜかためらわれた。
　頬の涙を懸命にこするユリカは、まだかすれている声でイネスに問いかけようとした。
「じゃあアキトの体は――」
　ユリカに視線を移したイネスは、彼女を遮ってでも、もう一つの宣告を口にせねばならなかった。
「――元に戻る、というよりは時間を逆行することになるかもしれない」
　再びベッドを回り込んで、患者搬送用の通路へと進み出る。
　通路の上部、強化ガラスで作られた高い天井のさらに上、冬の曇天から漏れる淡い光が、ベッドを運ぶ彼女の背中を寂しげに照らし出した。
「知っての通り、今までＩＦＳを除去した人間は一人もいないの。だから何が起きるかは全くわからない、推測するだけね」
　イネスは淡々と続けた。
「ナノマシンで形成された補助脳は、ＩＦＳ除去手術で一切消えてなくなるでしょう。で、そうなったら、どうなる？　それまで脳と他の器官との連携を司っていた代替神経がなくなったら？　……これはＩＦＳへの依存度にもよるのだけど、多かれ少なかれ身体機能に影響を及ぼすでしょうね。ひどければ、深刻な全感覚喪失に襲われることになる」
　ルリはイネスの言う事をほぼ理解できたが、最後の言葉の意味がわからなかった。
　いや、あるいはわかりたくないという気持ちが働いていたのかもしれない。しかし事実を把握するためにはそれを確かめねばならなかった。
「どういう事になるんですか」
　イネスは首をすくめるようにうつむいて、弱々しい光と車輪の転がる乾いた音を反射させる廊下を見た。
「そうね」
　彼女は少しだけ後ろを振り返った。背後の二人の理解を促すように話す。
「人間は、感覚器官を通じて外界の情報を獲得している、これはいいわね。目や耳、鼻、舌、肌なんかが正常に働いているからこそ、自分や他人の存在を感じることができるのよ。全感覚喪失っていうのは、それらが一切機能しなくなること」
　移動ベッドから離した右手を軽く横に差し出したイネスは、手のひらを上にして広げた。その先には、うすら寒い中庭の空虚な造形が見えるだけだ。
「この状態に陥った人間の気持ちを例えるならば、こうなるかしら。何もない、星の光さえ届かない宇宙の彼方に素っ裸で放り出されるようなもの。何も感じることができないのね、重力も、熱も、心臓の音や、自分の呼吸している空気さえも」
　人感センサが反応し、廊下の突き当たりにある飾り気のない白いドアが音もなく横にスライドする。人通りの絶えた病棟があらわになり、アキトの病室がすぐそばに見えた。だがイネスはそこへ移る直前でベッドを止め、二人の方を向いた。その時の彼女の顔には、冷徹な、科学者らしい面差しが表れていた。
　イネスは自重気味だったが、二人にはっきりと宣告した。
「まあ、どんな人間でも、半日ともたずに発狂することは請け合うわ」
　ユリカはびくりと体を震わせた。
　ルリはベッドの上に力なく横たえられているアキトの手を見つめた。彼女の胸には、去年の夏の日、あの墓地で見せてくれた彼のはかなげな笑顔、それだけが溢れていた。あの時もっと強い事を言ってでも、彼を引きとめるべきだったのだろうか。そうしていれば、もっと違う未来を迎えていただろうか。ルリの思いはむなしい問いへの答えを求めさまよった。
　イネスは二人から言葉が返ってくるか待ったが、どちらも口をつぐんだままだった。
　しばらくの沈黙の後、イネスはやっと自分の本心を打ち明けることができた。
「あなた達にはつらい事を言うようだけど、アキト君に近しいからこそ、包み隠さず言ってるの。……とても私だけじゃ、重くて背負いきれないしね」
　アキトの病室へ入ったイネスは移動ベッドを手際よく扱い、部屋の中央へ滑り込ませた。パネルを操作すると保護スクリーンが開き、ほぼ同時にベッドの下からアームがせり出して、アキトの体を病室のベッドへと移し換える。
　イネスは移動ベッドに置いたカルテを取り上げユリカとルリを前に口調を和らげた。
「良く考えて決めてちょうだい。時間はそれほどないけど――」
　その時、彼女に声をかける者があった。
「その手術、すぐにやってくれ」
　驚いたイネスは、体ごと振り向いて声の主を探した。病室のベッドに横たえられたアキトが、顔をイネスに向けまっすぐに見上げている。体が痛むのか、眉間にしわを寄せ苦しそうな表情をしている。
「聞いて……いたの？」
「アキト！」
　ユリカはベッドに駆け寄り、今度はアキトの存在感を失うことのないように頭と肩をぴったりと彼の体にあてがい、左手を腕に添わせた。アキトはまだたどたどしい動きで手を伸ばし、ユリカの頭を優しくなでた。
「大丈夫、もう落ち着いたから。そんな顔すんなって」
　アキトは、まるで小動物のように切なげに自分を見つめるユリカにそっと微笑みかけた。彼女が小さくうなずくのを確かめてから、痛そうに肩と首をひねり、決まりの悪そうな笑顔をイネスに向けた。
「心配かけてすまない。でもまあぶっちゃけた話、俺、早く元気になりたいんだよ。だから手術を」
　妙に軽薄そうに笑うアキトだったが、彼に対してイネスは真顔で核心をついた。
「そんな事言って、手術を受けたらすぐにあの子を助けに行くつもりなんでしょ。ラピス・ラズリを」
　たちまちアキトは言葉をつまらせた。もはや彼の顔には笑みのかけらもない。唇を噛み、肩を震わせている。
　だがイネスはためらうことなく、非情にも自分の言葉の先を継いだ。
「例え首尾良く手術が成功してもね、何もかも元通りになれる保証なんてどこにもないのよ、わかってるの？　人の事より自分の心配をなさい。彼女ならネルガル・シークレット・サービスに任せておけばいい――」
　アキトはイネスに激しくくってかかった。
「だめなんだよ、それじゃだめなんだ！　ラピスは俺を助けてくれた、だから今度は俺が助けなきゃ……！　早く、早くしないと――」
　興奮して体を起こしかけていたアキトは、ふと口をつぐんだ。自分の胸にかすかに暖かい感触が広がったからだ。見ると、ユリカの手が彼の胸にそっと触れられていた。
　アキトはユリカを振り返った。彼女は言葉を発することなく、思いつめた表情でじっと彼を見ている。彼はユリカにも当たり散らしそうになっていたのだが、その表情を見ている間に激昂した気持ちは費え去り、やがて顔を赤らめて下を向いた。
「ごめん」
　ユリカは、言葉を控えた彼の代わりにイネスに語りかけた。
「私はアキトのそばにずっといてあげられなかった、だから何が起きたのか実際はわかりません。でも皆に教えてもらって、私が眠っている間の事をちょっとだけ知ることができました」
　伏し目がちに続ける。
「アキトの選んだ道、アキトを支えた人達。こんなにたくさんの人達にお世話になってるんなら……」
　ユリカはいきなり顔を上げ左腕をせいいっぱい広げた。
「どぉんとお礼参り、させてもらおうじゃありませんか！　そのためにはアキトにも元気になってもらわなきゃ困るしぃ、もっちろん、私も一緒に行くからね」
「お前、何言って――」
　慌てて止めに入ったアキトだったが、以前のように朗らかに笑うユリカの表情とは正反対に、自分の胸に添えられた彼女の手が小刻みに震えているのに気づいた。アキトはユリカの決心を知り、反論するのをやめた。
　アキトの無言の同意を得たユリカは続けた。
「船は、宇宙軍がだめならネルガルに掛け合いましょう。理由はまあちょっと置いとくとしてあの人達もラピス・ラズリさんを救助したいはずですからね。機動兵器はステルンクーゲル、腕のいい整備班にばっちりカスタマイズしてもらっちゃいましょう。そうそう、サポートのパイロットも何人かスカウトしなきゃ。作戦の内容によってはぁ」
　張り切り過ぎとも言えるほど次々と構想を組み立てていたユリカを、イネスが遮った。
「ちょっと待って、それはアキト君が期待通りに回復したらの話でしょ。医者としては聞き捨てならないわ。あなたは事の重大さを軽視し過ぎてる」
　イネスの強い調子に、ユリカは懇願するようなまなざしで彼女を見上げた。
「でもぉ」
　互いに見つめ合い黙ってしまったユリカとイネスに対して、これまで静かにしていたルリはついに自分の意見を述べた。
「私は、アキトさんの意思を尊重します。手術をやりましょう」
「ルリちゃん！」
　だがイネスはまだ渋っている顔つきだ。
「だけど手術の成功率を考えると……」
　そんなイネスに、アキトは畳みかけた。
「頼むよ。イネスさん」
　アキトの一途な表情を見たイネスは、自分のこめかみを人差し指でしばし叩いたが、思い切ったように顔を上げた。
「手術ってのは、本人の気の持ち方でも大きく結果が変わるもの。アキト君、今みたいにポジティブに考えることをやめないことよ。そうすればきっと納得できる結果に結びつくはずだわ。私も医者として全力を尽くします」
　イネスは控え目に笑って腕を広げた。
　アキトの顔にみるみる希望の色が広がる。
「ありがとう、イネスさん！」
　彼の言葉を聞いたイネスは、カルテを胸にあてがい横を向きながら彼を流し見た。
「名前で呼んでくれるの、久しぶりね。アキト君」
　彼女に指摘されたアキトはこの三年間に自分と彼女との間で交わした言葉を思い出し、なぜか恥じ入ってしまった。
　イネスはアキトに背を向け、声を張り上げた。
「それじゃあさっそく手配をするわ。ただし、実施はアキト君が手術に耐えられるだけ体力をつけてからよ」
　彼女は言い放つと、後れ毛をかき上げて出口へ向かった。
　ルリはある事に気づいて彼女の後を追った。
「手伝います」
　ルリを振り返ったイネスは、ベッドに起き上がったアキトの肩にユリカがもたれているのを見た。二人の間に言葉はなく、ひたすらに身を寄せ合っている。
　イネスは何事もなかったように再び前を向くと、隣へやって来て歩き出したルリに顔を寄せささやいた。
「賢明な選択ね」
　ルリはまっすぐに出口を向いて歩きながら答えた。
「はい」
　それから一週間以上に渡り、アキトの外傷の治療と体力回復のためのリハビリテーションが実施された。
　彼はもはや誰に抗うこともなく、与えられたメニューを黙々とこなしていった。ユリカとルリも時間の許す限り足繁く療養所を訪れ、彼の身の回りの世話をやくのだった。
　さらにルリは、イネスの指導のもとＩＦＳナノマシンに対するハッキングという前代未聞の治療法に取り組むべく訓練を積んでいた。彼女の役目は、オモイカネと協調してＩＦＳのウイルス・プルーフ機構に強制介入することで無力化し、イネスの用意するコンピュータ・ウイルスをアキトの体内へ導入する手助けをするものである。
　未踏の領域故に身につけなければならない技術は多かった。現代科学にある程度通じている彼女をもってしても、学習と演習を繰り返さねばならない。だがはっきりと目的を持っていた彼女にとって、それらはさして苦にならなかった。