手術当日。波打つ厚い雲は本来もっと明るいはずの空を余すところなく覆い隠し、また触れるものをあまねく凍り付かせてしまいそうな冷たい風は療養所の周囲をきまぐれに時折吹きさらっていた。医務棟の東側にある搬入口から、空の貨物車両が発進する。
　手術室のあるフロアでエレベータを降りたルリは、ゆっくりとした足取りで廊下を歩いた。洗い立ての白いワンピースは絞り気味の長い丈のスカートとぴったりした袖、えりぐりが動き易さを強調している。上半身にはおったピンクのベストはこの季節にしてはいささか寒そうにも見えたが、静電気防止のための金属繊維とともに仕込まれた熱伝対により彼女の体温は最適に保たれていた。
　持ってきたコントロール・パネルを抱え直したルリは足をゆるめて右手の窓を眺めた。外に広がる景色はコントラストが低く、隣に建っている病棟の屋上から望む海さえも平板で不毛な荒れ地のように見えた。沖合いのそう遠くない場所にはナデシコＣが投錨しており、潮のうねりに揺られて微妙に船体を上下させている。
　彼女は手首のコミュニケを操作した。
「オモイカネ、もう少しで始まるけど準備はいい？」
　たちまち彼女の周囲に幾つものウィンドウが開く。《出力良好、通信良好》、《秘匿モード・オン》、《フィールド展開開始》、《データベース準備完了》、ウィンドウの表示を確認したルリは小さな声で答えた。
「よくできました」
　明るい呼び鈴の音とともに、彼女の言葉と同じ文字の書かれたウィンドウが大きく広がり、やがて薄らいで消えた。ルリはウィンドウのあった場所に分け入るように静かに前へ進んだ。
　曲がり角の先にある手術室前の長椅子に座っていたユリカは、ルリが現れるととっさに腰を上げた。ルリが彼女の前にたどり着くのを待ちきれずに話しかける。
「ルリちゃん、体の調子はどう？」
「はい、ばっちりですよ」
　ユリカに心配をかけまいとルリはしっかりした口調で返事をし、胸元でブイサインを作ってみせた。ユリカは泣き出しそうになるのをぐっとこらえて彼女の両手を取った。
「ルリちゃん、ありがとう。アキトはね、何も言わないけどルリちゃんには感謝してると思うよ」
　懸命に訴えるユリカを、ルリは黙って見上げた。
　ルリの固い表情を見たユリカは、彼女の手を取ったままうついむいてうなり始めた。
「んーっ」
　次にいきなり顔を上げ、大きく一つうなずく。
「アキトの夢、かなえてあげよう！　それからね、アキトが復讐の鬼さんなんかにならないように、私達で見守ってあげるの。今日は手伝えないけど、アキトの事サポートしていこうね」
　夢。ユリカの言葉にルリははっとした。この手術でアキトを傷つけるようなまねをしてしまうのではないかという危惧の念から、すっかり忘れてしまっていた。――今から自分はアキトを絶望の淵から連れ戻しに行くのだ。他でもない、彼の思いを実現するために。
　肩にこもっていた力が抜け、ふと体が軽くなった。そのおかげでルリは、優しい微笑みでユリカに答えることができた。
「はい」
　彼女の笑顔を見たユリカの中にも、安堵の気持ちが広がった。涙ぐんだ顔でしきりにうなずく。
「うん。うん」
　ルリはそっとユリカから手を離した。
「じゃあ、行ってきます。待っててくださいね」
　ルリは歩き出した。冬の長い陽差しが窓からほぼ横に差し込んでおり、彼女の白い服装と明るい色の髪を輝かせた。
　手術室の扉を押そうとする彼女の背中に、ユリカが声をかける。
「ルリちゃん！　私達……私達、これからが始まりだから、ね」
　ルリは一瞬立ち止まって振り返った。ユリカは思いつめた表情で窓のそばに立ち尽くしている。ルリは小さくうなずくと、手術室の中へと入っていった。

　エア・カーテンとシールドをくぐり抜けると、景色は一変した。同心円状に配置された銀色のテーブルやラック、それらに載せられた大小さまざまな医療器具と情報機器、忙しく立ち働く医療スタッフでごった返す手術室が目の前に広がった。ルリは慌てずに一歩ずつ進み、自ら喧騒の場の一部と化した。
　手術台の傍らで指示を出していたイネスはルリの入室に気づいてすぐさま声をかけた。
「ルリさん、おはよう。あなたはそちらのブースに着いてちょうだい」
　イネスの指さす先には、天井から垂らされた薄い透明なシートで区切られている一画があった。中には簡単な造りの椅子と机があり、また机からは太いケーブルが何本も出ていて、総てが部屋の中央に位置する手術台につながれていた。
　ルリはブースへ向かうと、シートを跳ね上げて中へ入った。持ってきたコントロール・パネルを机の所定の位置にはめ込んでから椅子に座り、ベストの裾より引き出したアース線を背もたれにあるジャックに差し込んだ。
「静電シールド、入りました」
　イネスはブースに近づきながら彼女に答えた。
「よろしい。やる事は、これまで訓練してきた通りよ。患者のＩＦＳが備える七つのプロトコル・ゲート総てを突破すること。そこまでがあなたの役目。残るウイルスの注入は、私と彼らで受け持つから」
　ルリから見て左側の壁際にもう一つのブースがあり、中にはオペレータの制服を着た二人の男性が並んで座っていた。彼らは自分達に向かってルリが頭を下げるのに気づき、軽く会釈を返した。
「ＩＦＳへの侵入の度合いや患者の容態によっては中断もあり得るから、モニタの表示には十分注意すること」
　二人の間で何日もの間繰り返され、耳についてしまった言葉だ。だがそれは、他でもない今日この時のためにあるのだ。ルリは気を引き締めて答えた。
「了解」
　イネスは親指を掲げ自分の背後を指した。
「『あれ』で物理層の半分までは食い込んでるわ。この先は任せる」
　ルリはイネスの肩越しに手術台の上を見た。白いシートに覆われた中で一部だけがめくられ、人間の片腕があらわになっていた。腕はひときわ高いプラスチック製の台の上に置かれていた、というより黒いベルトで動かないようにしっかりと固定されている。手の甲には、長い針のようなものが無数に突き立てられていた。
　ルリは息を呑んだ。あまりの痛々しさに表情がこわばる。この手術が現実であり実戦であることを嫌でも思い知らされる。
「スキャナをセット」
　イネスは既に自分の定位置につきスタッフに合図していた。天井から双眼鏡のような形をした器具が降りてくる。シートがめくられ器具が顔の上半分を覆い隠すまでのわずかな間、酸素マスクをつけられたアキトの顔をのぞくことができた。麻酔で眠らされている彼は、相変わらず苦しそうな様子だった。
「いつでも始めていいわよ」
　イネスの声を頼りに、ルリは自分を奮い立たせた。両手をそっとコントロール・パネルの上に置く。
「オモイカネ、行くよ」
　つぶやくように語りかけると、彼女の白い手の上に《ＯＫ》と記されたウィンドウが控え目に出現した。
「物理層にコンタクト」
　ルリは、自分のＩＦＳを通じて知覚が拡張されてゆくのをまざまざと感じた。幾重にも巡らされたネットワーク、様々な太さを持ちまっすぐに伸びる通信回線を、オモイカネとナデシコＣに支えられて彼女は進んだ。
　これが、始まり。ルリはふと、先程ユリカが残した言葉を思い出した。終わりではなく、始まり。この道の先から、彼女とユリカ、そしてアキトにとって、何が始まるのだろう。
「マス・アタック、開始します」
　ルリは抑揚のない声でそう言うと、アキトのナノマシンへ最初の攻撃を仕掛けた。
　彼女の周りに浮かび上がったウィンドウが光をはためかせ、電子の世界の有様を刻々と変化する数値の羅列で表現していた。同じ表示を手元で見ているオペレータの一人が、明瞭な口調で戦況を読み上げる。
「……侵入係数、七十、九十、百」
　間髪入れずにルリが言い放つ。
「物理層、突破。データリンク層に入る」
　ウイルス処置担当のためしばらく出番のないもう一人のオペレータが、思わず感嘆の声を上げた。
「速い！　さすが『電子の妖精』……」
　だがそんな外野の声も、彼女の耳には届かない。
「ウォッチドッグ解放。アニヒレーション・ボット、散布します」
　驚異的な集中力で、ルリは次々と攻撃を展開してゆく。
　ウィンドウに敷き詰められたグラフや数値は閃きながら収縮し、敵対するナノマシンが急激に勢力を弱めているのを示していた。オペレータが勝ち誇ったような声で読み上げる。
「侵入係数二十、四十五、六十五……」
「回線、二系統が強制遮断されました。六系統増設します」
　作業の合間に横目でルリの様子を眺める医療スタッフ達は、小声でささやき合っている。彼女の強気の作戦が相手を圧倒しているのは、誰の目にも明らかだった。イネスも今のところ指示を出す必要がなく、無言で手近のウィンドウを見ているだけだ。
「データリンク層、突破。バイオパス層に入る」
　言い終えてふと、ルリは動きを止めた。自分の周囲に広がるウィンドウを端から目で追う。
　ほぼ同時に、手術台を監視していた医師の一人がイネスを呼び止めた。
「ドクター・フレサンジュ、これを見てもらえますか」
　彼は自分の手元にあるモニタを押し、イネスの方へ向きを変えた。
「若干ですが患者の体温と心拍数が低下しています」
　イネスは少し腰をかがめてモニタをのぞき込んだ。いぶかしげに指を顎に添える。
「一時的なものじゃなさそうね。ルリさん、そちらの進み具合はどうかしら」
　ルリも既にイネス達と同じ情報をウィンドウに表示させていた。ウィンドウの中では、何本か引かれたグラフの斜線の交差する部分が微妙に揺れ動いている。
「まだ時間はかかります。この分では安全圏を維持するのは難しいかもしれません」
　彼女の返答を聞いたイネスはすぐさまスタッフに指示を出した。
「断熱シートを二セット用意して。ヒーターも忘れずにね」
　壁際の棚のそばにいたスタッフが、イネスの注文した品を手際よく取り出した。銀色に輝く荷袋のような形をしたものが二つ、手術台のそばに置かれた。続いてヒーターの伝導体と制御装置が近くに引き寄せられた。
　イネスはそれらを確認した後、オペレータ達の扱うスキャナの映像を眺めた。ナノマシンの光が時折走るアキトの網膜の様子が映し出されているのを見ながら、彼女は独り言めいてつぶやいた。
「ナノマシンが、宿主の安全よりも自分達の生存を優先しようとしている……？　まさかね」
「一回線、応答なし。遮断して迂回します」
　ルリは淡々と作業を続けた。
「侵入係数九十六、九十八、百」
「突破。ニューロセントリック層に入る」
　だがその途端、オペレータやルリの使っているウィンドウ総てが、一瞬暗転した。
「何っ？」
　思わず立ち上がったオペレータの頭上、天井近くでまばゆい光が点滅したかと思うと、そこから多数のウィンドウが溢れ出した。まばゆい光を放つウィンドウは、瞬く間に手術室の空間全部を埋め尽くした。
　矢のように流れる真っ白なウィンドウに視界を遮られた医療スタッフの一人がたまらずイネスに問いかける。
「ドクター、これはいったい?!」
　イネスは周囲をぐるりと見渡して様子を確かめる。
「反撃、ってところね。でもこちら側の回線にこれだけのシグナルを割り込ませてくるなんて――」
　彼女が言い終える前に、室内に低いうなり声が響いた。獣が威嚇するような叫びが、長く尾を引いてこだまする。
　何事かと辺りを見回す人々の視界に、ウィンドウの中の奇怪な影が映った。影は見る見る形を変え、銀色の鱗に覆われたトカゲのような姿になる。手に手に武器を振りかざし、雄叫びを上げている。
　思い当たったオペレータが驚嘆して叫んだ。
「モックーンのハチュー・メカ！」
　思い切り大声でその名を呼んだ後、彼は周囲のいぶかしげな視線に気づいて萎縮してしまった。説明とも言い訳ともつかない言葉を漏らす。
「ナチュラルライチのモックーン編に出てくる敵の戦闘員……です。でも、なんで？」
　オペレータに尋ねられたイネスは、真剣な面持ちでウィンドウの状態を分析し始めた。が、彼女が答えを見出す前に、ルリが注意を促した。
「回線の交換率を見てください。ウィンドウのおかげでこちらが押されてます」
　イネスは自分の手元のモニタを素早く確認した。ルリの言う通り、ウィンドウの大量発生直後からルリの攻撃到達率が極端に下がっている。
「なるほど。『火星の後継者』のナノマシンがナチュラルライチを選んだのは、まあ趣味の問題として」
　イネスは顔を上げてルリを見た。
「こっちに分が悪いわね。あるいは撤退して作戦を練り直した方が良いかも。ルリさん、あなたの判断は？」
　ルリは、先程来の電脳戦の影響でナノマシンのパターンをくっきりと浮かび上がらせた顔を、イネスに向けた。イネスのそばにいたオペレータ達は、ルリの尋常でない形相に思わずかたずを呑んだ。
「この挑戦、受けて立ちます」
「ちょっとルリさん、本気？」
　ルリは頭を巡らせて、アニメのキャラクタに侵されたウィンドウと、まだ正常に機能しているウィンドウとを半々に見た。
「相手はこれだけの情報を送り込むのに、かなりの力を使ってるはずです。その分ウイルス・プルーフ機能が弱体化していると見込んで、両面から抵抗を試みます。オモイカネのバックアップもありますし、場合によってはこちらが少し有利かもしれません」
　彼女の意見を完全に理解したイネスは、口元に微笑みを浮かべて言った。
「あなたの思う通りにやってみなさい」
　イネスの支持を受け、ルリは姿勢を定位置に戻した。人形のように無表情になる。
「了解」
　彼女の目の前にウィンドウが開き、オモイカネのシンボルである銅鐸の模様が映し出された。
「オモイカネ、『お姫様』の資料を読み込んで」
　ベルの音とともにウィンドウが白く輝き、部屋の中央へ飛び出した。
　やがて軽快でかわいらしい音楽がどこからともなく流れてきた。
「ライチ、ライチェル、ライチェロ、ライチ！」
　張りのある幼い声が突然聞こえ、ウィンドウに七色の光が走る。一同が何事かと見守る中、ルリの抑揚のない声が後を追う。
「マス・アタック、再試行します」
　ウィンドウの光はますます彩りを増す。
「魔女っこプリンセス、ナチュラルライチ！」
　派手な服装で決めポーズをこしらえた少女の姿が、ウィンドウの下からせり上がってきた。
　室内にいたほとんどの人間が一気に脱力した。が、先程敵を看破したオペレータは、頬を紅潮させてウィンドウを食い入るように見つめている。
　ウィンドウの中のライチはステッキを振りかざして並み居る敵を端からねめつけた。決意の表情で言い放つ。
「皆の地球、平和な暮らしを脅かす、ワルの一味はノー・サンキュー！」
　オペレータの自制心はもろくも崩れ、歓喜の声が口をついて出た。
「おお、モックーン編最終クールの決めぜりふ！」
「ロック解除、成功。続いて回線復帰を試行します」
　オペレータの熱い叫びとは違って、ルリの声はあくまで冷静だった。
　ライチはステッキを両手で持ち、先端に取り付けられた宝石を胸に静かに当てた。目を閉じ呼吸を落ち着ける。
「昔、いつも一緒にいた私の大事な人。本当は誰よりも真面目でまっすぐなのに、すぐに照れ隠しをしてしまう恥ずかしがり屋。あなた達が連れ去ったあの人を取り戻すまで、私は絶対あきらめない」
　そこでオペレータは少しけげんな顔をした。
「あれ、あんなせりふだったっけ……？」
　彼の疑念をよそに、ライチは目を見開き、腰を落として身構えた。
「覚悟なさい。ライチ、ライチェル、流星キック！」
　ジャンプしたライチの姿が消え失せた。と、敵の映るウィンドウの一部が強い光を放った。光は帯のように広がり多くのウィンドウを飲み込んでゆく。光の帯の先頭には、すらりとした足で敵に跳び蹴りを喰らわせるライチの姿があった。
「まだよ！」
　ライチは着地すると、鋭い目つきで後方上空を振り返った。
「ライチ、ライチェル、フルーツ・パンチ！」
　膝に力を込めてジャンプするのと同時に、腰の辺りから上に向かいえぐるように拳を突き出す。新たな光の帯が形造られ、敵のハチュー・メカは断末魔を残して収縮を始める。小さくなったメカはバッタのようにせわしなく飛び跳ねて逃げていった。
　ライチが敵を一掃して元のウィンドウに舞い戻った頃、ルリがぽつりとつぶやいた。
「ニューロセントリック層、突破。モルフィーム層に入る」
　ウィンドウに遮られていた視界が回復したことで、医療スタッフは自分達の作業を再開させた。
　医療機器のモニタ音と人々の立ち回る騒がしさが復活した室内で、しかしイネスとオペレータ達は一つの異常に気づいてそれを凝視していた。
　ライチの映っているウィンドウが脈打ちながら四方へ広がっているのだ。ライチ自身も自分の周囲で拡大を続ける白い空間を緊張した面持ちで見回している。
　ウィンドウの陰に隠れそうなルリが口を開いた。
「第二波、来ます」
　ライチの頭上に黒い点が現れたかと思うと、渦を巻いて彼女に急接近した。彼女が後ろに飛びすさるのと同時に、黒い渦は地面に降り立った。縦に長く伸び、人の形になった。
　黒い兜、黒い肩当てと小手、胸当て、人影は真っ黒な重武装をまとい、顔と手先だけをのぞかせている。その顔を見たライチは愕然とした。
「サビーナ！」
　ライチの声とオペレータの叫びが重なる。
　悠然と構えるサビーナは、かつてライバルであり友でもあったライチの事など忘れてしまったかのように、悪意に満ちた嘲笑を浮かべている。
　ライチは彼女の表情の意味を理解するのを拒んだ。
「サビーナ、私よ！　あなたを取り戻すためにここまで来たの。ねえ、帰ろう、一緒に。皆の所へ」
　しかし彼女の反応は全くない。やがてもやのような黒い影が背後に現れるのに合わせて、彼女は人差し指を天に向かって高く掲げた。
　ゆっくりと腕を下ろしライチを指さした瞬間、サビーナは口を開いて声のない笑いを上げた。彼女の指先から稲妻がほとばしる。
「きゃっ」
　ライチはとっさにステッキを盾にしたが、強い衝撃をさばききれず簡単に弾き飛ばされた。
「強制排除が始まりました。侵入係数、低下」
　ルリが手を載せるコントロール・パネルが震えるように光を明滅させる。
　彼女の前に大きく広がったウィンドウでは、ライチが腕を押さえながら膝を立て体を起こしていた。苦悶の表情を前にルリの声が流れる。
「オルタ・ソロモン法でアタックを試行します。迂回路検索」
「あなたを必ず連れて帰る。そのためにあなたと対決しなければならないとしても、私は戦う」
　近づこうとするライチに、サビーナは容赦なく雷撃を浴びせかける。ステッキを前に差し出してはいるもののあまり防御にはならず、体のあちらこちらが傷つき服は切り裂かれた。
「オルタ・ソロモン法、失敗。アンチ・クリップで再試行します」
　ライチは足を止めサビーナをまっすぐに見つめた。ステッキに取り付けられた宝石がきらめく。
「行くよ、サビーナ。……ライチ、ライチェル、フルーツ・バスケット！」
　宝石から吹き出した様々な果物が、四方八方からサビーナめがけて飛んだ。
「お願い、効いて！」
　ライチの悲痛な叫びが後を追う。
　明るい色彩が炸裂し、ウィンドウの映像がかき消えた。
「アンチ・クリップ、成功。モルフィーム層、突破。セマンティーム層に入る」
　ルリの言葉に突き動かされたように、ウィンドウの映像が回復した。波打つ色とりどりの光が、両手両足を引っ張られ体の自由を奪われたサビーナを押し包んでいる。苦しげにあえぐ彼女のまとう黒い鎧は不気味な音を立ててきしんでいる。
「お願い……」
　ライチは合掌してサビーナの様子を見守った。
　同じようにこのハッキングの行方を見つめていたオペレータ達の卓の上で唐突に警報音が鳴った。オペレータは慌てて手元を確かめる。
「これは……パイロット・レコーダが反応してる。ドクター、患者の生体情報の吐出が始まります！」
　イネスはすぐさま事態を把握した。
「今生体情報で回線をふさがれたら元のもくあみだわ。すぐにバイパスを引いて」
「了解」
　オペレータが作業に取りかかると、次は医療スタッフから声が上がった。
「ドクター、患者の体温と心拍数が急激に低下しています！」
「断熱シートとヒーターを使って。心臓マッサージの準備を」
「はい！」
　手術台の白いシートが勢いよくめくられる。アキトの上半身があらわになった時、医師らは目を疑った。ナノマシンの放つ暗い赤い光がアキトの体のそこここで衝突し、見たことのないパターンを形成していた。それはまるで溶岩が流動する火山の火口をのぞいているようだった。スタッフは恐ろしいものを視界から隠すために無言で手早く断熱シートをかぶせた。
　室内の沈黙によって、ルリの控え目な声が引き立った。
「回線強制オープン。ペネトレーション・ボット、投入」
　ウィンドウの中、サビーナの手足は絞り上げられ、ついに限界を超えるに至った。鎧は粉々に砕けて飛び散った。中から、彼女本来のコスチュームであるバイオレット・ピンクのドレスが現れる。
「突破。最終ゲート、サイバーネイト層に入る」
　七色の光がふっと失せ、サビーナがその場に倒れ込む。ライチは血相を変えて彼女に駆け寄った。
「サビーナ！」
　ライチに抱き起こされた彼女は唇を震わせ、静かに目を開けた。
「ライチ……。私を助けてくれたの？」
　恥ずかしげに上目遣いで見上げる彼女に、ライチは涙をにじませた顔で微笑み答えた。
「一緒に、帰ろう」
「ありがとう」
　サビーナはライチの肩に手をかけ、何とか自力で立ち上がった。心配そうに腕にすがるライチに、せいいっぱいの笑顔を向ける。
「ありがとう、大丈夫よ。それより」
　彼女は身を翻して自分の立っていた場所を振り返った。そこには最初の黒いもやがまだかかっていた。
　サビーナはそのもやをぴたりと指さした。
「モックーン首領！　よくもよくもこんな目に遭わせてくれたわね。黒い鎧をまとってるからブラック・サビーナですって？　言うに事欠いてそんなコテコテでダッサダサな名前つけてくれちゃって、許さなくってよ」
　ライチとサビーナの目の前で黒いもやは広がって実体化し、竜のような姿になった。身構えて戦闘態勢に入るサビーナを、ライチはなぜか引き留めた。
「あの」
　肩にかけられた手に、サビーナは手を添えた。
「わかってる。あなたの力であいつを解放してあげるんでしょ」
　以前と変わらない様子で答える彼女に、ライチは安堵を感じた。
　サビーナは一歩前に出て天高く両腕を差し上げた。意識を集中させて呪文を唱える。
「スイーティ――」
　両手の先に光の球が宿った。彼女はゆっくりと腕を下ろして球体を胸の前にかざし、目を見開く。
「ギャザリング！」
　腕を振り払うと、球体は光のしぶきをまき散らしながら、よける隙さえ与えられなかったモックーン首領の胸元に激しく衝突した。苦しみの叫びが地面を揺るがす。
　サビーナは軽やかに飛び退き、ライチのために道を譲った。
「頼んだわよ。ナチュラルライチ」
「……うん！」
　独特な足の組み方で立ったライチは、ステッキを前に掲げて呪文を唱えた。
「ライチ、ライチェル、フルーツ・バスケット！」
　ステッキから飛び出した果物が動きの鈍ったモックーン首領を捕らえる。光の壁に包まれた首領は身動きがとれなくなっていた。
　続いてライチがステッキをゆっくり振り上げると、相手の体は静かに空中へ舞い上がった。
「ここから離れて、あなたのやって来た場所に帰って。えいっ」
　ステッキを勢いよく振り上げると、首領の体は弾かれたように上昇し一瞬にして視界から消えた。
　ライチは目を潤ませて彼方へ消え去る首領の姿を見送った。小さくつぶやく。
「お友達の所へお帰り」
　そこへ、後ろからサビーナが飛びついてきた。
「ね、私達も帰ろう」
「うん！」
　二人は歩き出す。が、数歩行ったところでふと止まると、ウィンドウの外に向かいカメラ目線でブイサインを出した。明るい音楽とともに画面がワイプアウトされる。
「サイバーネイト層、突破しました」
　ウィンドウの陰で宣言するルリの体を走るナノマシンは、徐々にではあるが落ち着きを取り戻していった。ルリの周囲には、オモイカネが表示させたウィンドウが《突破》、《やったね》、《成功》といった文字を踊らせている。
「現在、全回線とも補助脳に直結しています」
　イネスは向き直り、オペレータを促した。
「さあ、これからが私達の本番よ。ウイルスのロックを解除してランチャーに移してちょうだい」
　彼女はオペレータ達が作業に取りかかるのを見届けてからルリを振り返った。
「お疲れ様、この後は私達がやるからあなたは休んでちょうだい、ルリさん」
「――ルリちゃん」
　ルリは目を見開いた。イネス以外の誰かの呼びかける声がしたからだ。長い間聞いていなかった、とても優しい口調の。
　ルリは声の主を求めて顔を上げた。彼女の視線の先には一つのウィンドウがあり、同心円状に巡るナノマシンがぼんやりと光っていた。アキトの網膜スキャン映像だ。
　あそこに、アキトがいる。無防備になった補助脳の先に。
　アクセス割り込みをかければ、実体脳の情報を引き出すことなどたやすい。そうすれば彼の周囲の人々に対する本当の思い、感情を知ることも可能――。
「ルリさん？」
「はい、お言葉に甘えてお先に撤収します」
　ルリはベストから伸びるアース線を椅子の背もたれから引き抜いた。
「オモイカネ、お疲れ様。秘匿モード・オフ、フィールド・オフ、手術室との間の回線をお片付けして」
　だがオモイカネは、言われた作業をすぐには始めなかった。代わりに、ルリだけに見える小さなウィンドウを出した。《本当にいいの？》と書いてある。
　ルリは頭上の網膜スキャン映像をちらりと見やったが、すぐに視線を戻し微笑んだ。彼女の表情には、いくばくかの自嘲が含まれているようにも見えた。
「いいよ」
　オモイカネは仕方なくウィンドウを閉じ始めた。ルリは立ち上がってコントロール・パネルを取り外すと、電子の世界から立ち戻ったばかりで少々ふらつく体を何とか持ちこたえさせて手術室の外へ出た。