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　記憶をよみがえらせていたルリはいつとも知れぬ内に、呼び出された第二診察室の前にたどり着いていた。白いドアをノックする。
「入って」
　イネスの声に導かれて彼女はドアをくぐった。中はあの日の手術室と同じように、消毒用アルコールの臭いに満ちている。
　白いついたての脇を抜けると、医師の診察席に着く白衣のイネスがルリをまっすぐに見つめていた。彼女の後ろにある窓の外は白く光っていてよくわからなかったが、どうやら雪の降りは弱まっているようだった。
「おはよう。お二人さんが質問したい事があるそうよ」
　彼女は自分の右手の壁を指した。壁際にはガラス製の低い机と黒いソファがあり、ルリに対する形で二人の男が座っていた。冬めいた色調の背広を着て茶を飲んでいるプロスペクターと、安物なのか高級品なのかわからないいつものスーツをまとい口を一文字に引き結んだゴートである。
　ルリの視線を捉えたプロスペクターは、すぐさま口を開いた。
「どうもお久しぶりですな、ルリさん。朝からお手数かけます」
「いえ、おはようございます」
　ルリは二人にお辞儀した後、イネスに促されて患者の座る丸椅子に腰掛けた。イネスは診察机に置いてあったポットに手をかけ、湯飲みに茶を注ぐと彼女に手渡す。
「あ、いただきます」
「二人からのおみやげもあるわよ」
　イネスは机の上の皿を指さしてみせた。きれいに並べられた落雁の載った皿の向こう側には、包装紙がたたんである。紙には、曲がりくねった筆文字で菓子名とともに『ネルガル製菓謹製』と印刷されているのが見えた。
「私は後で」
　答えたルリは手元に視線を落とした。質感の良い陶器の湯飲みに八分目に注がれた鮮やかな色の緑茶からは、ゆるやかに白い湯気が立ち上っている。空調が効いているとはいえ冬の寒さを拭いきれないこの部屋にあって、それは一時の安らぎをもたらす暖かさを目に見せていた。
　ルリが一口飲んだ後を見計らって、プロスペクターが切り出す。
「早速ですみませんが、実は、今こちらに入院中のアキトさんについて――」
　ルリは湯飲みの水面から顔を上げた。彼は切迫した様子で言葉を続ける。
「お聞きしたい事がありまして。ルリさんはナデシコＢの実験航海中に、単独でジャンプ・アウトしてきたアキトさんにお会いしたそうですね？」
　ルリは湯飲みを携えた両手を、そっと膝の上に置いた。
「はい」
「その時の事をよく思い出していただきたいんです。アキトさんはその……お連れの……」
　一瞬言いよどんだプロスペクターを、ルリは素早く補った。
「ラピス・ラズリさんですか？」
　思わずルリに助けられたプロスペクターは、ほとんど意味のない笑いを浮かべた。
「そう、そのラピスさんなんですよ。……彼女の姿はありましたか？」
　ルリは彼らが何を求めてここへ来たのか何となく察しがついた。が、その事自体について彼女が口出しする権限はないと、彼女自身は思っていた。
　彼女は目を伏せ軽く首を振った。
「いいえ、現れたのはアキトさんだけでした。でも」
　つと彼女は左手を挙げ、手の甲を二人に見せる。透き通るような白い肌には、コントロール・パネルを使用していないためナノマシンのパターンは浮かんでいない。
「その時ＩＦＳから吐出を受けた生体情報には、ラピスさんの生命反応が記録されていました」
　プロスペクターは顎に手を当て深くうなずいた。
「やはり、そうでしたか」
「少なくともアキトさんがジャンプ・アウトしてきた時にはラピスさんは無事だったんです」
　ルリの胸中には、アキトに遭遇したあの瞬間の鮮烈な記憶が浮かび上がっていた。なだれ込んできたアキトの感覚は、今も彼女の持つナノマシンに名残をとどめている。彼女はそっと肩の力を抜きながら膝元へと手を下ろした。
　イネスが言葉を挟んだ。彼女の手元には茶を注がれた磁器の茶碗が置いてある。
「その時点で生存が確認できているのなら十中八九、今も彼女は生きてるでしょう。奴らが貴重な実験材料をそう簡単に手放すとは思えないからね」
　彼女はプロスペクター達の方へ身を乗り出し、語気を強めた。
「ましてや、結果的にとはいえこちらでアキト君の手術が成功した以上、向こうとしても技術的優位を獲得するため、あるいは人質という意味でも彼女の確保には躍起にならざるを得ないところよね」
　ルリはイネスが話している間、彼女の横顔をじっと見つめていた。彼女の語る言葉が、ルリに手術直後の光景を思い出させた。
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　手術室の扉が勢いよく開かれた。ストレッチャーに乗ったアキトが運び出されてくる。
「あ……」
　長椅子に座っていたユリカは跳ねるように立ち上がって彼に駆け寄った。
「大丈夫？　ねえ、アキト」
　ユリカはアキトの体を覆うシーツに手を添えると必死に彼に呼びかけている。
　ルリも彼女の後ろからアキトの様子を見た。彼の顔はひどく青ざめてはいたが、手術中に現れていたようなナノマシンの激しいパターンは一切見受けられなかった。これまでの苦しみが跡形もなく消えてしまったように、否、それどころか何か大事なものまでが失われてしまったかのようにさえルリには感じられた。
「……！」
　自分の感情が暗い疑念で覆われるのを、ルリはすんでの所で振り払った。
　ルリが、付き添っていた医師に手術の結果を尋ねると、彼は気持ちの高ぶりを押さえ切れぬ様子で答えた。
「成功ですよ。患者の体内にあったナノマシンは総て除去されました。私ゃ今までにこんな鮮やかな施術を見たことがない！」
「そうでしたか。……イネスさんは中ですか？」
　ルリは手術室を指し示した。
「ああ、隣の控え室で休んでいらっしゃいますよ」
　医師はそれだけ答えると、ストレッチャーを運ぶ医療スタッフや、アキトに声をかけるユリカの後を追うべく早足でルリのもとを離れた。
　ルリはアキト達の姿がエレベータに消えるまで見送った後、きびすを返して手術室へ戻った。開け放たれた隣室へ入る。
「イネスさん、ちょっといいですか」
　飾り気のない窓際にある机の上に手を載せてたたずんでいたイネスは、彼女の声に振り返った。
「何？」
　窓外から差し込む淡い逆光で、彼女の表情はよく見えない。
　はやる気持ちを抑え、ルリはイネスに問いかけた。
「手術、成功だったと聞きましたけど、……後遺症の方はどうなんですか」
　イネスはルリの方へ一歩進み出た。室内の明かりを受ける彼女は白衣を脱いでおり、赤と白を基調にしたネルガル医療班の制服姿であった。
「……安心なさい。彼、アキト君の場合、補助脳への依存度が極端に低かったせいで、ＩＦＳ除去後の身体機能への影響はごく小さいもので済みそうよ。すぐに体も自由に動かせるようになるでしょう」
「そうなんですか」
　ルリはここで初めて緊張が解けるのを感じた。アキトの体は危機的状況を脱した。彼の思いの実現に、一歩近づいたのだ。
　彼女の気持ちをよそに、イネスは続ける。
「まあ、いわば結果オーライってやつね。手術中の記録を一部見返してみてわかったんだけど、彼のようなＡ級ジャンパーは補助脳に類似した神経回路を、どうやら先天的に持ってるらしいの」
　イネスは腕組みしてにやりと笑った。
「この意味、わかる？　火星の極冠遺跡から干渉を受けたナノマシンは、宿主の肉体の一部を使って補助脳を形成することで、ジャンパーとしての能力を人間に与えていたってわけ」
　黙って耳を傾けているルリを前に、イネスは話し続ける。いくらか早口で喋る彼女の様子にいつもとは違った迫力を感じたルリだったが、あるいは手術直後の疲労のせいなのかもしれないと、この時までは思っていた。
「これはさすがにちょっと予想できなかったわ。ＩＦＳ強化体質どころか、人間の体自体が回路を生み出していたんだものね。まあもっとも、いくら生体が補助脳を持ってたとしても、もしＩＦＳに対する依存度があと何パーセントかでも高かったら、今回の除去手術で彼の身体機能は深刻なダメージを確実に受けてたはず。だから……あら？」
　イネスは急に言葉を切った。話だけを聞いていたルリは、どうしたのかと顔を上げた。
「――どうして、今頃」
　つぶやいたイネスは自分の右手をじっと見つめていた。手は小刻みに震えている。声は、驚きと動揺でうわずっている。
「今頃震えがくるの？　……そうよ、もう少しでも依存度が高かったら、あの時、この手の中で、アキト君を……お兄ちゃんを……」
　彼女は左手で強引に震えを押さえ込み、くるりと窓の方へ体を向けた。ルリには背中を見せる形になる。
「ルリさん、私、カルテの整理をしたらちょっと体を休めたいの。悪いけど席を外してもらえるかしら」
　彼女はいつもの口調に戻っていたが、決してルリと目を合わせることはなかった。ルリももとより彼女の仕事の邪魔をするつもりはなかったし、特に今は彼女が一人になりたがっているのがわかったため、すぐに出口へ向かって歩を踏み出した。
「わかりました。これで失礼します」
　ルリはできるだけ足早にその場を去ろうとしたが、控え室を出る寸前、イネスのかすかな声が届いた。
「ありがとう」
　ルリは聞こえないふりをして部屋から出た。
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「どうかした？　ルリさん」
　ふと気がつくと、診察机に肘を置いたイネスが、横目でルリの顔をうかがっていた。
　ルリは視線を逸らした。
「何でもありません」
　イネスは彼女の心中を察しているのかどうか、それ以上何も聞かずに彼女の横顔をじっと見ていた。
　二人の雰囲気にプロスペクターは怪訝な顔をしたが、悩むべき本題に関する自分の意見を述べた。
「問題は、彼女がどこにいるか、という事なんですなぁ。あらかじめアキトさんから聞き出した情報、それにテルテ・ユニットの軌跡とネルガルによるユーチャリス追跡記録を合わせて捜索してみたんですが、お二人が捕らえられていた敵基地を探し出したまでは良かったものの、いやはや踏み込んだ時は既にもぬけの殻でして」
　イネスが彼の言葉を引き取る。ルリにも事情がわかるようにはっきりとした口調で言う。
「で、プロスペクターとミスター・ゴートは、いちるの手がかりを求めてここに来た、と」
　プロスペクターは自分の湯飲みをあおりながら小声で答えた。
「まあ、ありていに言えばそうなりますかな」
　それまで自分の膝に両手を突っ張って茶も飲まずに黙っていたゴートが、イネスに向かって口を開いた。
「手術の際に放出されたパイロット・レコーダーに、記録はなかったのか」
　イネスは軽く両手を広げてかぶりを振った。
「『火星の後継者』がアキト君に注入したナノマシンにしても、記録していたのはごく最近の情報だけ。容量はせいぜい二、三日分ってとこね」
　すぐにゴートはルリへ視線を向ける。
「ハッキングに成功した時、実体脳から何か情報を引き出せたか」
「……いいえ、何も取得していません」
　モニター越しに見た、丸いぼんやりとした光。ルリの脳裏に突然、思い出の中の一人の男の姿が光とともに現れて消えた。彼女は続けて言った。
「って言うか、あんまりやり過ぎるとプライバシーの侵害になると思うんですけど」
　ルリの答えに、身を乗り出していたゴートは肩を引いた。
「……」
　何も言わず、彼は腕組みをして再び口を引き結んだ。ルリは湯飲みから茶を一口飲み、喉から胸元に広がる暖かい感覚を独占した。
　しかしながらルリ自身、自分のこぼしたせりふになにがしかの後ろめたさを感じずにはいられなかった。実体脳へアクセスしなかった自分を果たして正当化すべきなのか、判断は下せない。
　静かになったゴートに代わってプロスペクターが次の質問をした。
「えー、ルリさん。聞くところによるとあなた、『火星の後継者』蜂起事件の時に、遺跡付近でラピスさんと交感というかテレパシーというか、とにかく通常の通信装置を使わずに対話したそうですね」
「はい」
　ルリには、彼が何を言わんとしているのかすぐにわかった。が、差し出がましい真似はせず、彼の言葉を待った。
「ここでまたそれを、やっていただくことはできますかな？」
「それなんですが」
　ルリは、事情を説明するため平淡な語り口で言った。
「実はアキトさんを救出した後、彼女の居場所がつかめないかと思ってもう何度か試しているんです」
「おお、そうだったんですか」
　プロスペクターの返答はやや沈んでいた。というのも、もし仮にルリがラピスとの交信に成功していたのなら、事態は既に違う方向へ進んでいたはずであることを理解したからだ。
「はい。でもそれらしい反応は結局見つけだすことができませんでした。考えられるのは、彼女が眠らされているか、そうでなければネットに介入できない場所に監禁されているんじゃないかと思います」
　プロスペクターはうつむいて身をよじるように腕組みをし、うなった。
「うーむ、これはますます困りましたなぁ。こうなると、いよいよアキトさんに意識を回復していただいて我々を導いていただかなくては。ほら、何しろ彼はラピスさんとは五感をサポートする側、される側の間だったわけですし、ねえ」
　周囲に同意を求めるプロスペクターだったが、どこからも明るい反応は得られなかった。釘を刺すようにイネスが言う。
「普通に考えたらそれこそ正に、いちるの望みね。次善の策を用意しておいた方が良いわ」
「はあ」
　返答とも嘆息ともつかぬ声を、彼は上げた。
　しかしルリは、もしかしたら状況は彼らが思うほど追いつめられていないのではないだろうかと感じていた。彼女は三人に向かって素直に自分の考えを語った。
「アマテラスと火星上空での戦闘記録を見た限り、アキトさんは、私なんかよりずっとスムーズに交信できていたみたいですよ。確かに希望的な観測かもしれませんが、私は信じてみたいです、アキトさん達二人の強い関係を」
　そこまで言ったルリは、なぜか胸が苦しくなるのを感じた。知らない間に大変な事を言ってしまったような気がする。切ない、そして嫌な気持ちが頭の中をよぎった。そのため、彼女は急いで言葉を付け足した。
「私も、ネットを使った捜索を続けてみますので」
　彼女の意見でやや明るさを取り戻したプロスペクターは答えた。
「ええ、何卒、よろしくお願いしますよ」
　ルリの言葉を静かに聞いていたイネスは、話題の区切りとして別の話を彼女に持ちかけた。
「ところでルリさん、宇宙軍の方の休暇はいつまでなの？」
「今週いっぱいです。それが何か？」
　イネスは静かにうなずいて答えた。
「あなたがこれから先軍務を続ける上で、一つ警告しておきたい事があるの」
　彼女は茶碗を机の上に置き、人差し指を口元に当てた。
「あなたはＩＦＳへのハッキングという、近代科学技術史上類を見ない暴挙を成功させてしまった。この事実を奴らも黙って放ってはおかないわ。あなたのその能力を奪い取るためには、どんな手でも惜しまず使ってくるでしょう」
　ルリは彼女のまなざしを正面から受けた。冷淡な口調とは違って、瞳には願いにも似た光が宿っていた。
「それにアキト君やラピス・ラズリもそうだけど、ここで引き返せない扉を開けてしまった以上、あなたも自分の身の安全には十分注意することね」
　彼女の言葉は、Ａ級ジャンパーである彼女自身にも向けられていたような気が、ルリにはした。
「はい、ご忠告どうも」
　ルリの返事を聞いた後、しばらくしてイネスは細い溜め息をつき、天井を仰いだ。
「それにしても」
　独り言のようにつぶやく。
「私達、このままいったいどこに行くのかしらね」
　室内が静かになったつかの間、ルリは思索を巡らせた。イネスの疑問には答えを出せそうにない。だが何らかの意見を添えることはできるのではないだろうか。
　控え目な声音で、彼女は言った。
「ユリカさんだったら、こんな風に言うんじゃないんでしょうか。例えどんなピンチに陥っても、せめて自分らしくありたい、って」
　彼女は一つ一つの語句に自分の思いを込めた。今朝病室で見たユリカの弱々しい姿、あれは何かの間違いだと思いたかった。以前のように朗らかに笑うユリカを早く見たい、という気持ちが彼女の表情を真剣にさせていた。
　イネスは自分なりにルリの言葉の意味を解釈した上で、嫌みのない微笑みを浮かべた。彼女は一言だけ口にした。
「……そうかもね」
　彼女の表情と明瞭な声を目の当たりにしたルリは、黙ってこくりとうなずいた。

　一方、アキトの病室では、訪問者の数の割には静けさが全体を支配していた。雪のおかげで窓外の物音はほとんど入ってこない。医療器具の放つ電子音と、水がたっぷり仕込まれたやかんを熱するコンロの炎の音が、かろうじて静謐な空気を震わせていた。
　ベッドの周囲に集まったホウメイ・ガールズが、額を寄せ合い小声で何事か話をしている。ほとんどささやき声ながらも、芝居がかった口調でエリが言う。
「じゃあいくよ。……はい、私達は、森に住む四人のかわいいこびとさん！」
　続いて困り果てた表情を作ったジュンコが、両手を広げてベッドの上のアキトを指し示した。
「そしてここにいるのは、悪ーい魔女の呪いにかかって眠りに落ちてしまった王子様っ」
　ミカコが目をきらきらさせ期待に満ちた顔つきでジュンコに身を寄せて言う。
「このかわいそうな王子様を救えるのはぁ？」
　その後合図はなかったが、三人の声とポーズはぴたりと一致した。
「お姫様の熱ぅいくちづけ！」
　彼女らのお芝居についていけないハルミは呆れ笑いを浮かべていたが、もっと本格的にせっぱつまっていたのは、三人に囲まれ手のひらであおられているサユリの方だった。
「もう、皆やめようよ、こんな事」
　サユリはミカコ達を見回して懇願したが、エリは厳しく突っぱねた。
「だめだよぉ！　トランプに負けた人は皆の言う事何でも聞くって約束だったじゃない」
「えーっ、だけどこれはやっぱり……」
　うなだれたサユリは、上目遣いにベッドの上で眠っているアキトをちらりと見やった。少し頬が赤らむ。
「良くないんじゃないかなーって」
　だが彼女の微妙な反応をめざとく悟ったミカコは素早く腰をかがめて、にやにやしながら彼女の顔つきを確かめた。
「あれ？　でもあんまり嫌そうには見えないわよん？」
　ミカコの後ろではジュンコが嬉しそうに恥ずかしそうに、何度もうなずいている。
　サユリは慌てて顔を隠しいやいやをすると、ハルミに助けを求めた。
「ハルミちゃん、何とか言ってよお」
　しかしながらハルミは快い返答ができなかった。
「けど、もともとこのゲームの事言い出したの、サユリちゃんだし……。私からは何とも」
「えーん！」
　サユリはかわいらしい悲鳴を上げて頭を抱えた。エリが促す。
「お姫様、だだをこねないで、どうぞ王子様に口づけを。ささ、ちうーっと」
　エリは自分の方が口をとがらせて、両手を頬に添えているサユリにじりじりと迫った。ジュンコとミカコも顔を輝かせてサユリの反応を見守っている。
　三人に追い立てられたサユリは背中を丸め歯を食いしばっていたが、あまりの恥ずかしさにしまいには忍耐の限界を超えてしまった。きっと目を見開き顔を上げる。
「――わかったわよ、こうなったら！」
　サユリはやおら椅子から立ち上がると、ベッドのすぐそばにひざまずき両手をアキトの枕元についた。勢いでアキトの頭がかすかに揺らぐ。
　四人に見つめられている彼女は大きく息を吸って体を前にずらし、アキトの寝顔を真上からのぞき込む形になった。決意を固め、顔をゆっくりと近づけ始める。
「おぉ！」
　エリ達がどよめいたが、サユリは構わず自分の動作を続けた。
　体が沈むに連れて彼女のポニー・テールがさらりと肩を流れ、頬にかかった。彼女は無意識に自分の髪を掻き上げうなじへやったが、そのつやのある仕草がかえって周囲に強い影響を及ぼした。ハルミを含めた四人は、これから目の前で起こるであろうなまめかしい光景を想像してしまい、思わずかたずを呑んだ。
　誰もが沈黙を守っていたため、室内は再び静かになった。変わらない単調な電子音と、やかんの中で沸き始めた湯が放つ水蒸気の音だけが響く中、サユリはアキトに顔を近づける。
「あと十センチ……」
　ジュンコが小さくつぶやく。やかんの注ぎ口に取り付けられた笛が、湯の沸騰を告げるために小さく鳴り始める。
　笛の音が高まるのに合わせるかのようにサユリの頬の赤みもどんどん増してくる。サユリはそっと目を閉じた。
「お湯、沸いてますよ」
　五人の背後で突然ルリの声がした。
「ひいぃっ！」
　サユリは情けないことこの上ない叫びを上げて跳ね起きた。冷や汗にまみれた顔を、ぜんまいの切れかけたおもちゃのようにぎこちなく後ろへねじ向けた。病室の入り口に、ルリがちょこんとたたずんでいる。
　ミカコが大急ぎでコンロの火を消しに行く最中、サユリは苦心してようやく言葉を口にすることができた。
「ル、ルリちゃん、……いつからそこに？」
　ルリは彼女とは対照的に、いつもの口調で答える。
「そうですね、『呪いにかかって眠りに落ちてしまった王子様』って辺りからでしょうか」
　彼女の返事に、エリは間延びした声で感心したように自分の感想を述べた。
「あー、けっこう最初の方だあ」
「いやああぁっ！」
　サユリは耳まで真っ赤になった顔を覆い、ルリの脇をすり抜けて一目散にドアから走り出てしまった。
「ちょっとサユリちゃあん、コート、コート！」
　ミカコの呼びかけは全く届かない。廊下を走る足音はあっという間に遠くなった。
「じゃ、じゃあ、私達もそろそろ行こうか？」
「そ、そうね」
　ジュンコとハルミが妙にうわずった声で同意し合う。ミカコは既にサユリと自分のコートをしっかりと腕に掛けバッグも携えていた。
「あの、そういうわけで、私達帰るね。また来るから」
　早口で喋るジュンコを不思議に思いながらも、ルリは返事をした。
「はあ、はい。今度はゆっくりしていってくださいね」
「うん、そうするそうする。じゃあね」
　四人はさっと身支度を整えると、おしくらまんじゅうのように固まってドアへ殺到した。
「バイバイ、ルリちゃん」
「またねぇ」
　彼女らが外へ出てドアが閉じられるまで、ルリは右手を振っていた。
　くるりと振り向いて、彼女はやかんの湯を取りに行く。サユリ達がなぜあのような事をしていたのか、ルリには見当もつかなかった。気配りの行き届く彼女らにしては、けが人を前にして少々騒ぎ過ぎだったように思えた。
　テーブルの上の魔法瓶のふたを開ける。やかんを傾け湯をほとばしらせると熱い湯気が立ち上り、取っ手を支えるルリの手に温かさと湿り気とを与える。突然の刺激は、手術直後の控え室で自分の手を見つめるイネスの姿を思い起こさせたりもした。アキトの手を取るユリカの姿も。
　湯をすっかり注ぎ終えふたを閉じたルリは、ふと室内を振り返った。
　中央のベッドに横たわったアキトはいまだ目覚める気配がなく、ルリの位置からは半分だけ見えている彼の苦しげな面差しは、今朝一番に見た時と何も変わるところがなかった。
　ルリはやかんをテーブルにそっと置いた。言葉が自然と口をついて出る。
「……アキトさん、眠っててもモテモテですね」
　彼女ははっとした。聞き届けられるわけでもないのに、普通の会話のように話していた自分に驚いたのだ。
　ルリはもはや言葉を続けなかった。彼女の胸の中には暖かいものが満ちており、今はそれ以上のものが必要でないように感じられた。
　――これが……。ルリは、ユリカの言っていた事の意味が、少しわかったような気がした。彼女は眠っているアキトと二人だけの室内にあって、誰に見せるでもない微笑みを浮かべた。
　頬や額がほてっているのに気づいたルリは、窓の隣に切られたアルミサッシのドアを引き、ベランダへと出た。
「止んでる」
　空からはひとひらの雪も降ってはいなかった。雲は厚みを失い、ところどころが明るくなっていて今にも陽の光が射し込んできそうだった。軽やかな波音さえも、光を迎えるために揺れているようだ。
　思い出したように吹いてくる風はとても冷たい。だがルリは深呼吸をして、冷たさの中に込められている新鮮な冬の香りを感じ取った。
　手すりの雪を払って両腕をつき、庭を眺める。冬枯れの木々の中でもひときわ背の高い一本の木が彼女の目を引いた。
　まっすぐ空を望む幹から強く張り出した枝には、まるで木を包み込む厚手の衣服のように、雪がこんもりとまとわりついている。風が吹くたび、白い雪の細かい結晶がはらはらと舞い落ちる。結晶は、雲の上にあってまだ姿を見せない太陽の柔らかい間接光を受けてはかなくきらきらと輝いた。
　――雪は融けるもの。陽差しもいつかは戻ってくるだろう。その時が本当の始まり。
　ルリは冷たい手すりに触れている、雪のように白い自分の指先を見た。自分はその時を微笑んで迎えることができるだろうか。他の人々は？
　彼女には何の答えも見出せなかった。だからこそ今は、今だけはこうしていたい、と彼女は思った。
　ルリは空を見上げ、世界を押し包む冷たい空気の中でしばらくじっとしていた。

〈了〉